2009年3月9日月曜日

パゾリーニによるマタイ福音書1~32

パゾリーニによるマタイ福音書 愛洲昶・編 花野秀男訳 絵・ ピエーロ・デッラ・フランチェースカ、ジォット、カラバッジョほか

               
シナリオ

          マタイによる福音書

 ここに出版されたシナリオは、最初のフィルム撮りと対応している。つまり、このプロジェクトが、その後映画化されたものとは異なる芸術的制作規模を想定していた折に撮られた、最初のフィルムと対応している。だからといって──それゆえに──本書の文学的意義、ドキュメントとしての価値が些かも減じるものではない。



            クレジット

白地に、ボドニー活字で徴されたクレジットタイトル。
最初の一行、マタイによる福音書、に被さるように、画面外からよく徹る澄んだ(フィルム全体を通して預言者の節を「唱える」のと同じ声)。

 画面外の声 アブラハムの子、ダヴィデの子、イエス・キリストの系譜……

 声はかぼそくなりながら中景に退き、やがて、ついには辛うじて聞き取れるばかりの囁きとなる。最後にゆっくりと前景に戻ってきて、第一部タイトルの下では、始めと同じようによく徹る澄んだ声が響きわたる。
 ……それゆえなべて世を経ること、アブラハムよりダヴィデまで十四代、ダヴィデよりバビロンに移されるまで十四代、バビロン捕囚よりキリストまで十四代である。




 1  マリアの家。屋内 昼(ナザレ)

マリアの全身撮影。彼女はうら若い乙女なのに、眼差しだけは深みのある大人だ。その眸に、敗れた者の、苦しみが煌めく。農民世界で体験される苦しみ(ぼくはこうした苦しみを、戦時中、フリウーリの娘たちのいくたりかの裡に見た。それはあらかじめ形成されていたかのような苦しみで、慎ましいがゆえに、宿命的に入ってゆく状態であった)。
彼女はブルネットのヘブライ人少女で、もちろん、いわゆる「民衆出の」娘だ。他の何千もの娘と同じく、色褪せた衣裳を身に纏い、「血色のよい」肌に、生ける慎みにほかならぬおのれの宿命を負う乙女である。けれども彼女の裡には、何か王にも見紛うものがある。そして、それゆえにこそ、ぼくはサンセポールクロのピエーロ・デッラ・フランチェースカ作お孕みの聖母マリア、うら若い乙女のまま母となったあの少女、母親=少女、のことを想う。奇蹟の懐胎ゆえに、微かにぷくんと膨れたお腹が、苦しみを秘めて口を噤むあの乙女に、聖なる大いさを授けている。
ヨセフの最大接写。三十歳そこそこの職人。端整で素朴、丈夫なありふれた男。労働や正直で犠牲的な暮らしについて、素朴でやや窮屈な考え方を曲げぬ片田舎の家族のありきたりの「長男」。
いまでは平生の暮らしの埒外の何事かが起こって、彼はそのことに「躓か」ざるをえないけど、彼は「正しい人」、つまりおのれの「〈神〉への畏れ」において男らしく振舞う、分別のある男だ。いま彼がマリアに投げかける眼差しは、「密かに縁を切る」決心を告げたばかりの者の眼差しである。
マリアの最大接写。悲しみと湧きでる涙に抗いながらも、幼子の至高の気高さに包まれて、彼女は屈していない。
ヨセフの最大接写。いまでは悲しみにくれた沈黙が涙いろに染まってゆく。けれども若い男は勇を鼓して、目を伏せると背を向けて、田舎家の戸口から立ち去ってゆく。
マリアの全身撮影。あの小さく迫り出たお腹を抱えて、その苦しみのなかで、ひとりぽっちだけれど、そのお腹が山のプロフィルの大いさを彼女に帯びさせている。ひとりぽっち。
 (『本と恋の流離譚』中では「3 パゾリーニによるマタイ福音書」 )







 2  マリアの家。屋外 昼(ナザレ)


マリアの家から出てくるヨセフ、その全身撮影。ついで、遠ざかってゆく彼、そのパン撮影。職人の若者が──もう少年ではなくて、新しい家長、父親の、男らしさが顔にくっきりと刻まれている──「許嫁」の家から遠ざかって、鄙びた世界へと踏みだしてゆく(昼下がりの、悲しいばかりに強烈な太陽が、眠りにも似て、事物のうえに照りつける)。
進みゆくヨセフ、その全身撮影。 野菜畑の低い壁と、無花果の木立のあいだをゆく。地中海の田舎の世界、その真昼のしめやかな平安のなかへ。
一本の樹木(オリーブの樹か?)の木陰に横になるヨセフ、その全身撮影。あちらの下で、一筋の木陰のなかに、臥せる彼の身体のうえに長い休止、その全身撮影
小鳥たちの囀り、遠くで呼び交わす人びとの声……手桶の軋る音…… 目を閉じるや、たちまち若者らしい刺のある眠りに落ち込んだヨセフ、その最大接写──汗にまみれた歪んだ顔や、喘ぎにも似た荒い寝息が苦しみの痕を留めている。
すると唐突に、ありとある物音が途絶えてしまう。底無しの静けさが、今際の際にも似て、リバースショットで、すっかり光と静寂に浸された風景のうえに降りてくる。 ヨセフに目を凝らして、彼に告げる〈主の天使〉、その全身撮影

主の天使 ダヴィデの子、ヨセフよ、躊躇うことなく、妻マリアを迎えいれよ。彼女の胎の子は〈聖霊〉によって宿ったのだ。彼女は男の子を産む。その子をイエスと名づけよ。彼はまことにおのれの民をその罪から救うからだ。

物音や人の声がまた聞こえだして、さらに、一羽の小鳥の囀る歌声がひときわ高く大気に震えわたる。
目を見開くなり、唖然として眼前の光景に見入るヨセフ、その最大接写。あの光り溢れる、あの物音に満ちた、宏大な虚ろな風景──束の間の存在の甘美な徴し、永遠の徴し。そしてこうした風景のうえに、〈預言の言葉〉が高らかに響きわたる(これに伴ってつねに繰り返されるモチーフ、バッハの楽曲とともに)。

バッハの楽曲「プロフェーティカ」。

預言の言葉 見よ、〈乙女〉が身籠もって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる、「〈神〉はわれらと共に」という意味である。

起きあがるヨセフ、その全身撮影。ついで、先刻歩いてきたばかりの道程を引き返す彼、そのパン撮影。男はマリアの家めざして戻ってゆく。
マリアの全身撮影。いまでは彼女は庭先に出て、貧しい人びとの娘の慎ましい家事仕事に余念がない。
黙って彼女に近寄るヨセフ、その全身撮影
視線を向けるマリア、その最大接写
いまや余すところ無くおのれを照らしだす、底無しの、素朴な微笑みを浮かべながら見つめるヨセフ、その最大接写
彼女もまた、神秘的な、なおも苦しみの混ざった微笑みに、少しずつ次第に照らしだされてゆくマリア、その最大接写

溶暗。
……アブラハムの子、ダヴィデの子イエス・キリストの系譜 







……それゆえなべて世を経ること、アブラハムよりダヴィデまで十四代、ダヴィデよりバビロンに移されるまで十四代、バビロン捕囚よりキリストまで十四代である



 3  ヨセフの家屋内 昼 (ベツレヘム)
乳房を吸う幼子を抱くマリア、その全身撮影または半身撮影。このうえなく無垢の母性、しかし「リアリスティック」だ。(つまり、〈幼子を抱くマリア〉のイメージは、磔刑図とともに、彼女の生涯の特徴を最もよく示す、聖画像的イメージとして人に知られたもののひとつだが、ここでは、聖人伝的あるいは先験的に聖なるものが何ひとつこのマリアにあってはならない、という意味でだ。聖母マリアのまわりには現実の品々、貧しい新妻の現実の暮らしの品々が置かれており、そしてそれゆえにこそ感動的だし、ついには聖なるものとなるという事実のなかにこそリアリズムが成り立つのだ)。

溶暗。



 4   エルサレムの町並み。屋外 昼

全景撮影 市場がぼくには見える──オリエントの町の市場が、一九六三年の今日でもまさに見かけるような市場、スークと言うのだろうか、幾世紀もの停滞の奥底に、獣たちや、子供たちや、干からびた泥などの眩暈が蟠っている。あるいは隊商たちの「駅」が見える。黄色い埃のうえの黄色い泥の塊みたいな駱駝たち、古風なターバンを頭に巻いた若者たち、そして現代世界では消滅してしまった用途に充てられた品々などが目につく。
砂塵のなか、炎暑のなかを、年端もゆかぬたくさんの少年たち、乞食や、跛たち、あるいは小動物みたいに最高にしなやかな身ごなしの者たちなどが、いま到着して群衆を掻きわけ掻きわけ進む異国の人びとめざして、走り寄ってゆく。
召使の一団を後ろに従えた、三人の裕福な旅人である。彼らの衣裳には際立って異国風な豪奢さがある。 そして一行のひとりが、土地の者たちを振り返って言う。

三博士のひとり ユダヤ人の王として生まれたお方はどこです? わたしたちは東方でそのお方の星を見たので、拝みにきたのだが。



 5 ヘロデ王の宮殿。屋内 昼
     (ヨルダン)

ヘロデ王の最大接写。「不安を抱いた」王の顔のうえに非常に長い沈黙(オリエントの権力者の太った、残酷な顔。それは、実践性や、おのれの特権は傷つけられないと思う感情などによって置き換えられた、精神性の欠如そのものだ、など)。
黙りこくった二十人ほどの祭司長や律法学者たち、その最大接写。これに被せて、非常に長いパン撮影
ヘロデ王の接写。

ヘロデ王 要するにどこに、〈キリスト〉は生まれるというのだ?

ひとりの祭司長の最大接写。
祭司長 ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう録しています。「ユダの地、ベツレヘムよ──おまえはユダの大きな町のなかで決して最小の町ではない──おまえからまことにひとりの長が現れて──わが民イスラエルの牧者となるからである。」 

 バックに、バッハの「プロフェーティコ」のモチーフが低く流れて、やがて爆発し、そしてすぐに消えてゆく。

急速な溶暗。




 6  ヘロデ王の宮殿。屋外 昼
         (ヨルダン)

ヘロデ王の最大接写王は、まるでたったいま聞きおえたかのように、口を噤んだまま、黙って目をやる……
彼らも待つかのように、黙り込んでいる〈三博士〉、その全身撮影
あたりには、オリエントの王の怠惰な豪奢さのなかに、蛮族風の広間。
ヘロデ王の最大接写

ヘロデ王 行って、幼子のことを詳しく調べ、会ったなら、われに知らせよ。われも行って拝もうほどに。

溶暗。




7  ベツレヘムの街道とヨセフの家。
      夕映え(ヨルダン)

このうえなく強烈な光。
その光に照らしだされつつ、神秘的で楽しげな忘我に浸って、進みゆく東方の三博士、その全身撮影
あの光はいまではヨセフの家──庭先に大工道具やら農具やらの並んだ、大工の見すぼらしい家──から目も眩むばかりにあたりに発しているかのように見える。
ヨセフの家に近寄る三博士の全身撮影。そのうちにも家の近所からは、好奇心にかられて幼い少年たちが跳びだし、はしゃぎながら一行を取り囲む。




 8 ヨセフの家。夕暮れの屋内(ヨルダン)

夕暮れを迎えたヨセフの家の中ではすでに述べた「リアリスティックな母性」の情景がある。マリアの幼子は乳を吸ってはおらず、ちっちゃな手足を盛んに可愛らしく動かしながら、いまは遊んでいる。ヨセフがはその傍らで大工の手仕事に一心に打ち込んでいる。
中へ入る三博士の全身撮影と、戸口に人垣をつくる人びと(近所の人たち、子供たち)の群れがある。 三博士は入るなり跪いて拝むのに、幼子は喜んで小さな足で可愛らしく盛んに宙を蹴っている。あどけなく呆気にとられているマリアと、仕事を中断してしまったヨセフの前で、三博士が幼子を拝む。それから贈り物を土間に置き、恭しく頭を下げて祈っている。

溶暗。




  9  ベツレヘムの街道。 野外 昼
          (ヨルダン)

地中海の宏大な風景のうえに、無花果の木立、オリーヴ林、遠い人の声、羊の群れの啼く声……のうえに、夜明けが訪れる。手桶の軋る音…… 遠くで啼きかわす羊たち……
やがてすべてが不意に静まり返る。測り知れない静けさ。あたりの風景をゆっくりとパン撮影。すると、見よ、〈主の天使〉が街道にすっくと立っている。
ヨセフの家を辞し、帰途につく東方の三博士、その全身撮影、ついでパン撮影。一行が天使の傍らにまでやって来るやいなや、天使が彼らの前に立ちふさがる。そうして一行を先導してゆく。広々とした風景の中を背を向けて遠ざかる彼ら。すると、朝焼けの中、そこかしこからまた物音が立ちのぼり、日々の声々が聞こえてきて、それどころか小鳥の囀りが前にも増して力強く立ちのぼって、再び目を覚ました世界の平安の中でうち震えている。




10   ベツレヘムのヨセフの家。屋内 明け方
               (ヨルダン)

明け方、ベツレヘムのヨセフの家の中、まだ闇と、睡りに浸りきっている。
片隅に、大きく、無言のまま立っている〈主の天使〉、その全身撮影
そこにみな眠っている、マリアと幼子は粗末なベッドに、ヨセフもおのれの寝床に。犬さえ自分の隅っこで寝ている。事物や品々は夜明け前の蒼白さの中に失われている。すると再び目の覚めたばかりの世界の物音が、和らげられて、朧気に届いてくる。
奇蹟みたいな睡りを眠るヨセフ、その最大接写
睡りのなかで彼に告げる〈主の天使〉、その全身撮影

主の天使 起きよ! 幼子とその母親を連れてエジプトに逃れ、わたしが告げるまで彼の地に止まれ。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしている。

溶暗。




  11   ベツレヘムのヨセフの家。野外
           朝(ヨルダン)

さてここに、逃亡の永遠のシーン。慌しく積み重ねられた家財道具、黙って拾いあつめた大切な品々、形見。これから乗って旅する驢馬。溢れんばかりの慈しみをこめて厚く襤褸にくるんだ眠っている幼子。無用の閂をかけた住み慣れた古い家の戸口。そして旅立ち、暇乞い。
家、麦打ち場、動かしがたく、背後に遠ざかってゆく大切な土地よ、あちらではいくどとなく迎えたいつもと変わらぬ朝の静けさ、なのに今日という日はこんなにもむごく別の朝。 

涙をこらえながら、彼らの苦しみの宿命と恩寵の中に慎ましく閉じ籠もって、後ろを振り向く、ヨセフの最大接写、そしてマリアの最大接写。けれどもマリアの眸に湧いた涙の一滴が乾いて、あちらの失われた家を見晴るかす眸の中に、ただ一滴だけいつまでも残っている。

 バッハの楽曲「プロフェーティカ」が爆発する。

預言者の言葉 エジプトからわれはわが子を呼び出した。



12  ベツレヘムの一帯。野外 昼

          (ヨルダン)


(たけ)り狂って馬を駆るヘロデ王、そのクロースアップ、それに被せてパン撮影
哮り狂って馬を駆る一人の兵士、そのクロースアップ、それに被せてパン撮影
哮り狂って馬を駆る別の兵士、そのクロースアップ、それに被せてパン撮影。

つきまとって離れない、執拗な太鼓の連打音。馬蹄の轟き。喚声。

血に飢えた兵士たちが眼前に迫る、そのクロースアップ、それに被せてパン撮影、この繰り返し(たとえばエイゼンシュテインなどのように「表現主義的な」手法にしたがって、など)

一軒の農家に殺到する兵士の一団、その全身撮影。次つぎに馬から飛び降り、哀れな家に押し入って、泣き叫ぶ女や男たちに追われながら出てくる。兵隊が一人の母親の手から幼子を奪い取って、殺してゆく。
羊の群れの間で羊飼いの群れの子供たちを殺しまくって、同じ残虐行為を繰り返す兵士たちの別の一隊、その全身撮影、などなど。

獣じみた叫び声、苦しみの叫び声。

 溶暗。

そしていまは底知れぬ静寂の中に、殺戮された幼子のいくつもの群れが中庭に、道端に、川原に散らばっている。 一本の木の枝に縛り首になって吊るされている一人の幼子。小麦袋の傍らには首を刎ねられた別の幼子。
註。今次大戦中に、絶滅収容所などで起きた類似の残虐行為を思い起しながら、殺されたいたいけな身体に徴された残虐行為の痕を撮ること、など。)

 ゆっくりと続けて撮られる、こうした死のショットの数々、それらに被せて、絞った音から次第に強く響き渡り、ついに爆発する、バッハの楽曲「プロフェーティカ」。

預言の言葉 声が聞こえた、ラマで激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子たちのことで泣き、慰められようとしない。子たちはもういないからだ。

そして恐ろしい傷口に、引き裂かれた最後のいたいけな幼子のうえに静寂が舞い戻る。

溶暗。




13 ヘロデ王の宮殿。屋内 昼
            (ヨルダン)

王子たち、祭司長たち、律法学者たち、彼らのクロースアップ、それらに被せてゆっくりと長い移動撮影。一同はみな、葬儀の厳粛のなかで、目を凝らす……
死んで、王の寝台のうえに横たわるヘロデ、その全身撮影。

 急速な溶暗。






14  エジプトの地。野外 昼
         (ヨルダン)

臥せて眠っているヨセフ、その全身撮影
天使の訪れる深い睡りの中で、疲れた彼の顔、その顔のクロースアップ──その寝息は呻きにも似て。

 野良仕事に合わせて歌う農夫たちの唄声。やがて不意に歌声が途絶える。

絶対的な静寂の中で、見よ、いまはリバースショットで、ヨセフの前に〈主の天使〉が立っている。

主の天使 起きて、幼子とその母親を連れ、イスラエルの地にゆけ。幼子の命を狙った者どもは死んでしまったから。

睡りの中に神意を聴く驚愕になおも満たされたまま、目を覚ますヨセフ、そのクロースアップ。すると、あたりには、再び物音と人の声がする。

歌う農夫たちの唄声。 

 起きあがるヨセフ、そしてその全身撮影。ついでパン撮影。彼は歩きだして探す。すると、見よ、あちらに。
ほかの子供たちに囲まれて、マリアといたいけなイエス、その母と子の全身撮影。 これもまたリアリスティックな「聖母子像」である。
いまイエスは、捕えられた一羽の小鳥と戯れていて、その小鳥を撫でている。彼のまわりのほかの子供たちも、マリアの慈しみの眼に守られながら、その小鳥に触れて、撫でたがっている。

急速な溶暗。




15 エジプトの地。野外 昼
           (ヨルダン)

 バッハの「プロフェーティコ」のモチーフ。

はるか遠くで、辛うじて聞きとれるくらいにバッハの「プロフェーティコ」のモチーフが再び奏でられだすなかをヨセフ、マリア、イエスがパン撮影を従えて、棕櫚などの木陰のある砂漠の風景をとおり過ぎてゆく……
そしていま相変らずパン撮影を従えて、また相変わらずバッハの「プロフェーティコ」のモチーフを従えて、一行はイメージの奥底に埋もれたかのように、惨めな村の村外れにさしかかる──泥、汚物、癩、塵埃で満杯の川床の腐った水、牝山羊や驢馬といり混ざって、いっしょくたに賤しいひと塊となった半裸の男たち。

村のざわめき。

やがていきなり一切の物音が途絶えて、見よ、あそこに〈主の天使〉がその気高い神秘のなかに、細道の汚泥のうえにすっくと立っている。

バッハの「プロフェーティコ」のモチーフが強烈に爆発する。

主の天使 ヘロデの子アルケラオの支配するユダの地へ行ってはならない。 ガリラヤ地方の、ナザレという町へ行け。「彼はナザレ人と呼ばれる」と録した預言者たちの言葉が成就されるように。

溶暗。





 16 ヨルダン川の岸辺。野外 昼
                                  (ヨルダン)

駱駝の毛衣を身に纏い、腰に革の帯を締めた洗礼者ヨハネ、その半身撮影。心奪われる静寂の中で彼はおのれの前に眼を凝らす。

水音と群衆のざわめき。

ユダヤの砂漠を背に、ヨルダン川の岸辺沿いにヨハネのまわりに集った群衆の「幻視にも似た」ショット。 瞳に謙遜を宿し、敬虔ではあるがいささか脅えた人びと。みな貧しい衣服を纏っているが、中には知識人の姿も見えるし、ヨハネの弟子たちばかりではなく、将来の使徒のふたり、ヨハネとアンデレもいる。
洗礼者ヨハネの最大接写

洗礼者ヨハネ 悔い改めよ、天の国は近づいた。この者はまことに預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする──〈主〉の道を整え──その小径を真っ直ぐにせよ。」 

ヨハネがこう告げている間に、ここに、彼の言葉に注意深く耳を傾ける群衆の新たなショット。そしてあたりには砂漠の、ヨルダンの荘厳。十七世紀の神秘的幻視の大画風なその光と影…… 
洗礼を施す仕度をするヨハネ、その半身撮影(彼はすでに両足を流れに漬けている)。
最初の洗礼(ヨハネと受洗者、その全身撮影 )──二番目の洗礼(前記のとおり)──三番目の洗礼(前記のとおり)
するとここにロングショットで、川沿いの群衆や身分賤しい群衆を掻きわけて、上流階級の豪奢と優美の衣裳に身を包んだファリサイ派やサドカイ派の人びとの一団が現れる。経済的、精神的特権に心は頑なになり、誇りに溢れ、彼らは傲然と前に出る。
彼らを睨むヨハネ、その最大接写。 その両眼は苦しみに、ついで無類の怒りに燃えあがる。

洗礼者ヨハネ 蝮の裔よ! 誰がおまえたちに来たらんとする神の怒りを免れることを教えたか? おまえたちは悔い改めに相応しい実を結べ。そして「われらの父にアブラハムあり」と心のうちに言えると思うな。言っておくが〈神〉はこんな石塊からでもアブラハムの子らをお造りになれる。斧は早や、樹の根元に置かれた。良い実を結ばぬ樹はみな、切り倒されて火に投げ入れられる……

酢の中の油にも似て、あるいは海原の中の岩礁にも似て、貧しい人びとの群れの真っ只中に留まる権力者の一団、その彼らをロングショットのフレイミング、またはパン撮影

 ……わたしはおまえたちの悔い改めに水で洗礼を施すが、わたしよりも後に来る者はわたしよりも力がある。わたしはその者の鞜をとる値打ちもない……

ヨルダンの流れの碧をバックに、群衆が耳を傾け、ファリサイ人が耳を傾ける。

 ……彼は〈聖霊〉と火でおまえたちに洗礼を施す。 手には箕を持って、打ち場の麦をすっかりふるい分け、その麦は倉に納め、殻は消えることのない火で焼き尽くす……

溶暗。



  17 ヨルダン川の岸辺。野外 昼
            (ヨルダン) 

見よ、彼が来た、「〈聖霊〉と火で洗礼をほどこす」者が。 貧しい人びとの間を歩んでくるが、その彼を群衆と見分けるものはまだ何ひとつない。 彼は洗礼を受けにくる何千もの信者たちのひとりである。
控え目で無名(だが言いえぬ神々しさに輝く)その彼を移動撮影、ついでクロースアップ。
ヨルダン川の流れに漬かって洗礼を施し続けるヨハネ、その彼を移動撮影。 歩んでくるキリスト、その彼を移動撮影、ついでクロースアップ
キリストに気がついて彼を見つめるヨハネ 、そのクロースアップ、ついで移動撮影
歩んできてヨハネの前に控え目に立ち止まるキリスト、そのクロースアップ、ついで移動撮影
彼に目を凝らすヨハネ、そのクロースアップ
キリスト、そのクロースアップ
キリストをその人と認めたヨハネ、そのクロースアップ

洗礼者ヨハネ わたしこそ、きみから洗礼を受けるべきなのに、そのきみがわたしのもとへ来るとは?

脅えたかのように、感情を抑えたキリスト 、そのクロースアップ

キリスト いまは受けさせてくれ。正しきことをことごとく成就するのはわれらに相応しい。

従順に、いまはもう語るのを止めて、最前ほかの身分賤しい人びとに施したのと同じように、キリストに洗礼を施すヨハネ、その全身撮影
長く、厳粛な、洗礼という無言の行為。
キリストが水辺から上がると、そのとき果てしない大音響が轟く。
みな天を見上げる。眩い光ゆえに、泣いたみたいに濡れた眸の顔という顔、その鳥瞰撮影。すると一羽の鳩が、なおも轟きわたる大空から、滑るように飛んでくる。何ひとつ変らない、奇蹟は物理現象ではないのだから。けれども不変の空に、何かひどくこのうえなく新しいものがある。雷鳴はきわめて高らかな楽曲の中に溶けてゆく。

 バッハの楽曲「いと高きもの」

天の声 これはわが〈子〉、わが心に適う悦びの〈愛しいひと〉である。

そして空の光の上に…… 

ゆっくりと溶暗。     




 18 荒れ野。カランタル山(エリコ)。
         野外 昼(ヨルダン)

 二度、三度あるいは四度と、通過するキリスト、そのクロースアップまたは全身撮影。 ついでその移動撮影か、それともパン撮影かで、ゆっくりとただひとり荒れ野の中に消えてゆくキリスト。しかも荒れ野はその懐深く踏み入るにつれてますます堪えがたく荒れ果ててくる。ついには石塊と砂だけの広がりとなる。
さてここに、行く手に目を凝らすキリスト、そのクロースアップ、その瞳には神秘の燈火がともっている。そしてここに、彼の目の前には荒れ野。無用の太陽の中で、大地の死だけが広がっている。
キリストは跪いて祈りはじめる、その全身撮影。けれども、まだ祈りに集中しきれないかのように、彼を取り囲んでのしかかる戦きと静けさに気を散らされて、視線を上げる。
あの生命のかけらひとつない土地ゆえの苦しみを湛えた瞳で、眺めるキリスト、そのクロースアップ
キリストの目に映るのと同じように、ゆるやかなパン撮影によって剥き出しにされてゆく、白んでゆく、死体みたいな大地の広がり、荒れ野。パン撮影は全角回し撮りを終える。
そして──パン撮影の終りに──大地の眩い虚無の恐ろしい眺めの回し撮りを終えようというときに……

 ゆっくりと溶暗。    




   19 荒れ野。野外 昼。
          (四十日後に)

悪魔だ。そこにいて、見つめる悪魔、その全身撮影。このうえなく美しい青年だ、〈主の天使たち〉のひとりみたいに。けれども彼の美しさの官能的で神秘的に厭わしい怠惰さの中には何か恐ろしいものが蛇みたいにのたくっている。優雅で、素晴らしさに茫然とするような衣裳を身に纏っている──まさしく天使みたいに、そして権力者みたいに。しかもその衣裳をそれに淫した者のように着こなしては、おのれの苦悶と、悪を欲する者の癒されがたい不満とに蝕まれている。悪魔はその怠惰な、流し目の、美しすぎる眼差しを向ける……
祈っているキリスト、その全身撮影。彼は衰弱しきっている。(断食ゆえに骨と皮と化したその顔にはすでに磔刑の兆しが現れているのだろうか?)
それでも彼は祈りという至高の力をまだ持っている。
悪魔とキリストは長い間じっと見つめあう。卑しい、絶望しきった皮肉の翳が一瞬、悪魔の瞳を過る。

悪魔 おまえが〈神の子〉なら、これらの石塊にパンになれ、と命じたらどうだ

もう話すための声もほとんど残っていないのに、英雄的な努力で辛うじて聞きとれる嗄れ声で応えるキリスト、そのクロースアップ

キリスト 人の生きるはパンのみによるにあらず、〈神〉の口より出ずるすべての言葉による。 

溶暗。  




20 エルサレムの神殿の小尖塔。
          屋外 昼(ヨルダン) 

ゆっくりとパン撮影、つれてエルサレムの街が、ゆっくりと目に曝される──大通りから大通りへ、家並みの破風から破風へ、真昼の黄金色に舞う埃の粒子の中を──全角回し撮りを終える。
神殿の小尖塔の上の悪魔とキリスト、その全身撮影悪魔が人を動顛させる皮肉をこめてキリストを覗き込む、そのキリストのクロースアップ。

悪魔 おまえが〈神の子〉なら、飛び降りたらどうだ。「おまえのために〈神〉が天使たちに命じて、おまえの足が石に打ち当たらぬように、天使たちは手でおまえを支える」と、録されてあるではないか。

キリストはなおも耐え忍びつつ、嗄れ声で、動かしがたい力をもって悪魔に応える。

キリスト 「おまえの〈神〉である〈主〉を試してはならぬ」とも録されてある。 

鮮かな中断。




 21 山の頂。野外 昼
       (ヨルダン)

再びパン撮影のゆっくりとした回し撮りだが、今回は真昼の甘美な太陽の下に、見惚れるほどに実り豊かな平野の果てしない広がりが眼前にある。耕された畑、オリーヴ林、棕櫚の林、小さな村々、そして遠くには小尖塔がいくつも燦然と煌めく都会、それに羊の群れや河川……
前回のシーンと同じく悪魔とキリスト、その全身撮影
怠惰で皮肉な……だがその誇りを癒しがたく傷つけられてはや獰猛さを剥きだした悪魔、そのクロースアップ。

悪魔 平伏してわれを拝むなら、これらをみなおまえに与えよう。

キリストのクロースアップ(前回のシーンと同様)。

キリスト サタンよ、退け!「おまえの〈神〉である〈主〉を拝し、ひたすら〈主〉にのみ仕えよ」と、録されてある。

悪魔のクロースアップ。憎しみの、恐ろしい、不幸せな眼差し。やがて彼は敗れて、ゆっくりと背を向ける。
夏の火事で黒く焦げた木々や茂みの間を、もう後ろを振り返りもせずに去ってゆき、後ろ姿のまま消える悪魔、その全身撮影
リバースショットで、オリーヴの林のささやかな木陰、そよ風にそよぐ甘美な木々の間を、一群れの〈主の天使たち〉が讃美と愛の頌歌を歌いつつ歩みきて、その全身撮影、その頭上には…… 

天使たちの歌(バッハの楽曲「いと高き者」)。 

ゆっくりと溶暗。    




   22 牢獄の独房。内 昼
          (ヨルダン)

 独房の中で鎖で繋がれている洗礼者ヨハネ、その全身撮影。断食と苦しみに窶れはてて、目を伏せたまま彼は祈りに没頭している。 それから鉄格子から射しこむ光のほうにふと目を上げて、そとの光の中に滑空する雌鳩、〈神〉の白い鳩たちを見る。

低く抑えてバッハの楽曲「プロフェーティカ」が甦る。   




    23  カファルナウムの地。野外 昼
              (イスラエル)

 ……鳩たちの飛翔は空の中に消えてゆき、……を示唆するかのように……

 クレッシェンドで、バッハの楽曲「プロフェーティカ」がなおも続く。

……湖の岸辺で、太陽に照らされて、カファルナウムの街が白く輝く。 カファルナウムに向けて歩みゆくキリスト、その全身撮影。

預言の言葉 ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖畔の街カファルナウムへ往け。これは預言者イザヤによって言われたことが成就するためである。 

 陽に曝された山々に囲まれて、白い輝きを増してゆくカファルナウムの町並みを、遠くから、移動撮影

 ……「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川の彼方の町、異教徒のガリラヤ……

道端で動かぬ(仕事の帰りか、それとも午睡をとるのか)疎らな人びとを──子供たちや、羊たちの群れと一緒に──移動撮影。やって来る余所者を見守りながら、どの人の目も好奇心に燃えている。

 ……暗闇に住む民は、大いなる光を見、……

気高く物思いに沈んで、巡礼者のように歩みゆくキリスト、その全身撮影

 ……死の地と死の蔭とに坐する者に、光がのぼった」

日々の貧しい時の中に失われたまま、眺めているつましい人たちの群れを、なおも移動撮影。彼らの沈黙を前に、移動撮影車が止まるまで。
愛の笑みが溢れるばかりの底知れぬ眼差しで彼らを眺めながら、こちらも立ち止まってしまったキリスト、その最大接写。 やがて密やかに、親しみを込めて、内面の晴れやかさに溢れつつ、彼らに告げて言う。

キリスト きみたち、悔い改めなさい。天国は近づいたのだから。

真昼の野辺の長閑さをバックに、口を噤んで、一心に耳を澄ます人たちの窶れた顔々を、ゆっくりとパン撮影

鮮かな中断。 




    24 湖の畔。野外 昼
    (イスラエル)ゲネサレト湖

湖面に熱心に網を打つふたりの若者を、移動撮影。ペテロとアンデレを全身撮影。 二人ともその辛い仕事に黙々と没頭している。
彼らを眺めながら歩みくる(移動撮影が先行して)キリスト、そのクロースアップ。やがて立ち止まり、口を開くまで。

キリスト ぼくについて来なさい。きみたちを人間を漁る者としよう。

茫然と、しかも感動して彼を見つめる兄と弟、そのクロースアップ、ついでパン撮影
兄弟のように親しみをこめて彼らを見つめるキリストのクロースアップ、被せて移動撮影
移動撮影車に先導されて、キリストのほうへ歩みくる兄と弟、その全身撮影……

鮮かな中断。   




    25 湖の畔。野外 昼
         (イスラエル)

三人の男たち──老いたゼベダイとその息子のヤコブにヨハネ、彼らを移動撮影。彼らも湖の畔にいて、小船の上で落着き払って──背を丸めて、口笛吹きながら──網を繕っている。
移動撮影に先行されつつ──後ろにペテロとアンデレを従えて、歩みゆくキリスト、そのクロースアップ。やがて立ち止まり、うち眺めて、相変わらず声を荒らげずに、兄弟そのものの飾り気なさで、告げて言う。

キリスト ゼベダイの子、ヤコブにヨハネ、ぼくと一緒に来なさい!

互いに見交わして、それから老いた父親を見、またキリストを見つめるヤコブにヨハネ、その全身撮影
彼らを見つめるキリスト、そのクロースアップ、被せて移動撮影
立ちあがるヤコブにヨハネ、移動撮影が先導して、キリストのほうへやって来る……その二人のクロースアップ

鮮かな中断。 




    26  ガリラヤの地。野外 昼
            (イスラエル)

わめき、呻き吼えながら、蛇みたいに蠢く人体のもつれた塊、その移動撮影──やがてまったく人間らしさの見えない、悪鬼に憑かれた者らのひとり、そのクロースアップまで……
まわりを四人の使徒に囲まれて、底知れぬ憐れみを込めて、この者を見つめるキリスト、そのクロースアップ
そんな憐れみの眼差しに身を捩り、わめきだしたかと思うと、次第に唸り声が小さくなって──とうとう徐々に鎮まってしまうまで、悪鬼に憑かれた男の最大接写
悪鬼に憑かれていた男がいまは癒されて回りの者らを見分ける、その者らもいまは癒されたように見える、その男のクロースアップ、その背後から移動撮影。蛇たちのもつれた塊がほどけてゆく。すると親類や居合わせた人たちが気狂いを縛っていた鎖をほどく。
祈りに集中するキリスト、そのクロースアップ
彼を見つめる人びとの顔、その顔という顔をゆっくりとパン撮影

鮮かな中断。  




     27  山の頂。野外 
     昼(イスラエル) 至福の丘 
      あるいはハッティン連峰

山の頂で祈りに集中するキリスト、その全身撮影。孤独は絶対的だ。
だが見よ、岸辺に打ち寄せては砕け散る海にも似て力強く、ざわめきが遠くから聞こえてくる。使徒たちに導かれて、大群衆が目を眩ませる太陽のもと、山腹の急斜面を攀じ登ってくる。登りに登って、ついには無言のまま山頂をぐるりと取り巻き、言葉が発せられるのを固唾を呑んで待っている。当のキリストはこの大群衆を黙って見つめている。
陽に照りつけられながら、山腹に沿っていまは黙って腰を降ろす大群衆、そのパン撮影
「口を開き、教えて言う」キリスト、そのクロースアップ。彼が言う。

キリスト 幸いなるかな、心貧しい者よ。天国はその人たちのものだから。
 幸いなるかな、泣く者よ。その人たちは慰められるだろうから。
 幸いなるかな、柔和な者よ。土地はその人たちのものとなるだろうから。
 幸いなるかな、正義に飢え渇く者、その人たちは満たされるだろうから。
 幸いなるかな、憐れみ深い者よ、その人たちは憐れみを得るだろうから。
 幸いなるかな、心の清い者よ、その人たちは〈神〉を見るだろうから。
 幸いなるかな、平和を実現する者よ、その人たちは〈神〉の子と呼ばれるだろうから。
 幸いなるかな、正義のために迫害される者。天国はその人たちのものだから。
 幸いだろう、きみたちは。ぼくのために罵られ、迫害され、詐りのあらゆる悪口を浴びせられるときには。喜び悦べ、天にはきみたちに大きな報いがあるのだから。きみたちより前の預言者たちも同じように迫害されたのだ。

一心に話して聞かせる彼の顔、そのクロースアップの上に……

溶明。 





      28 山の上。野外 午後遅く


真昼の灼けつく光のかわりに、いまは日没のやわらかな光がある。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

  キリスト きみらは地の塩だ。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられようか? 何の役にも立たず、外に投げ捨てられて、人びとに踏みつけられるだけだ。
 きみらは世の光だ。山の上にある町は隠れるべくもなく、また人は燈火をともして升の下におかず、燈台の上におく。そうして燈火は家の中にいる者みなを照らす。
  このようにきみらの光を人びとの前に輝かせ。人びとがきみらの善い行いを見て、天にあるわれらの〈父〉を崇めるように。

そして一心に話し聞かせるキリスト、そのクロースアップの上に……

溶明




       29 山の上。野外 夜


語り続けるキリスト、そのクロースアップ
いまは夜である。彼の顔が辛うじて見えるか見えないかだ。ただ眼だけが生き生きと、光り輝いている。

キリスト ぼくの来たのは〈律法〉や〈預言者〉を毀つためだ、と思うな。 毀つために来たのではない、それどころか成就するために来たのだ。 断っておくが〈律法〉の一点一画までことごとく全うされるまで、天地の過ぎ往くことはない。
 それゆえこうした戒めの最も些細なひとつでも破り、みなこれにならえと人に諭す者は、天国でいと小さき者と呼ばれる。
 しかし些細な戒めをも守り、かつ人にも守れと諭す者は、天国で大いなる者と称えられる。
 言っておくが、きみらの正義が律法学者やファリサイ派の正義に勝らなければ、天国に入ることはかなわない。

そして一心に語り聞かせるキリスト、そのクロースアップの上に……

溶明。




       30 山の上。野外 昼


強烈な光がいまはキリストの額を叩き、彼の顔を石灰の面みたいにしている。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

キリスト きみらも聞いてのとおり、昔の人は「殺すなかれ、殺す者は裁きにあうべし」と告げられている。
 しかし言っておくが、兄弟に腹を立てる者は、誰でも裁きを免れない。
 また兄弟に向かって「馬鹿」と言った者は衆議にかけられ、「痴れ者」と言った者は火の地獄に投げ込まれる。
 それゆえきみが祭壇に供物を捧げようとするまさにそのときに、兄弟に怨まれることのあるのを思い出したなら、供物は祭壇の前にそのまま残して往って、まず兄弟と仲直りし、それから帰ってきて、供え物を捧げなさい。
 きみを訴える者となお路上にいるうちに、早く和解しなさい。
 さもないと相手はきみを裁判官に引き渡し、裁判官は看守に引き渡し、きみは牢に入れられてしまうかもしれない。
 断っておくが、一文残らず支払うまでは、きみは牢から出られないことだろう。

溶暗




       31 山の上。野外 夜


夜である。しかしいまは何本も松明がともされて、その照り返しがキリストの顔のうえで疲れ知らずに踊っている。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

キリスト きみらも聞いてのとおり「姦淫するなかれ」と告げられている。
 しかし言っておくが、女を見て欲望を覚える者は誰でも、心の中ですでに彼女と姦淫したのだ。
 それゆえもし右の目がきみの罪のもとならば、抉りだして捨ててしまえ。身体の一部がなくなっても、全身が地獄へ投げ込まれるよりはましだ。
 またもし右の手がきみの罪のもとならば、切り捨ててしまえ。身体の一部がなくなっても、全身が地獄へ投げ込まれるよりはましだ。
 「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と告げられている。
 しかし言っておくが、淫行のゆえではなくて妻を離縁する者は誰でも、妻を姦淫に晒すことになる。離縁された女を妻にする者も姦淫を行うことになる。

溶暗





       32 山の上。野外 昼


雨もよいの日の悲しく、平べったい、灰色の光がキリストの顔の上に捺されている。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

キリスト また、きみらも聞いてのとおり、昔の人は「詐り誓うなかれ、なんじの誓いは〈主〉に果たすべし」と告げられている。
 しかし言っておくが、きみたちは一切誓うな。
 天を指して誓うな、そこは〈神〉の玉座だ。 地を指して誓うな、そこは〈神〉の足台だ。
 エルサレムを指して誓うな、そこは大〈王〉の都だ。
 おのれの頭を指して誓うな、きみには髪の毛一本白くも黒くも出来ないのだから。
 きみらはただ「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言え。それ以上のことは、悪魔から出るのだから。

溶暗

               (工事中) 

パゾリーニによるマタイ福音書33~65

(工事中)       

33 山の上。野外 昼


またもや灼けつくような太陽がいまは、このうえなく激しく、キリストの顔に照りつけている。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

キリスト きみらも聞いてのとおり「目には目を、歯には歯を」と告げられている。 しかし言っておくが、きみたちは悪人に手向かうな。
 誰であれ、きみの右の頬を打つなら、左の頬も向けよ。
 きみを訴えて、下衣を取ろうとする者には、上衣をも取らせよ。
 またもし一マイル往くように強いる者があれば、彼とともに二マイル往け。
 きみに請う者に与え、借りようとする者に背を向けるな。
 きみらも聞いてのとおり「隣人を愛し、敵を憎め」と告げられている。
 しかし言っておくが、きみたちは敵を愛し、きみたちを迫害する者のために祈れ。きみたちが天にいますきみらの〈父〉の子となるように。
 天の父は太陽を悪人の上にも善人の上にも昇らせ、雨を正しい者にも正しくない者にも降らせる。
 おのれを愛する者を愛したところで、きみたちに天からどんな報いがあろうか?
 取税人でも同じことをしているではないか?
 兄弟にのみ挨拶したところで、何が勝っていようか?
 異教徒でさえ同じことをしているではないか?
 それゆえきみらの天の〈父〉が全きように、きみらも全き者となれ。

溶暗





      34 山の上。野外 昼


嵐の、白目を剥くような光り。雷の轟きが聞こえる。そしてキリストの顔を引き裂くかのように、過る稲妻の煌めきが続く。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

キリスト 人に見られようとて、人前で善行をせぬように注意せよ。 さもないと、天にあるきみらの〈父〉の許で報いを得られぬだろう。
 それゆえきみは施しをするとき、偽善者たちが人から褒められようと会堂や街角でするみたいに、おのれの前で喇叭を吹き鳴らすな。
 断っておくが、彼らはすでに報いを受けている。施しをするときには、右の手のなすことを左の手に知らすな。これはきみの施しを人目につかせぬためだ。そうすれば、隠れたことを見ている〈父〉が、きみに報いてくれる。

溶暗。 




      35 山の上。野外 夜


夜になっても、嵐は続く。雷鳴はいっそう猛々しく、稲光りはいっそう目を眩ませる。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

 キリスト 祈るときにも、きみらは偽善者を真似るな。彼らはこれ見よがしに会堂や広場の角に立って祈る。
 断っておくが、彼らはすでに報いを受けている。しかしきみは祈るとき、自分の部屋に入り、ドアを閉めて、隠れたことを見て報いてくれるきみの〈父〉に祈れ。
 また祈るとき、異教徒みたいに口先でくだくだしく唱えるな。彼らは言葉数さえ多ければ聞き入れられると思っている。だから彼らの真似はするな。きみらの〈父〉は、願う前から、きみらに必要なものをご存じなのだから。それゆえきみらはこう祈れ。

雷鳴と稲妻は止んだ。いまは一羽の夜鳴き鶯の囀る甘く乳色の夜である。

 ……天にいますわれらの〈父〉よ、御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が天の如く、地にも行われますように。われらの日々のパンを今日あたえたまえ。われらが債務者の借金を棒引きにした如く、われらの借金も棒引きになしたまえ。われらを誘惑に遇わせず、悪魔から救い出したまえ。
 きみらがもし人の罪を許すなら、天のきみらの〈父〉もきみらを許すだろう。だがもしきみらが人を許さぬのなら、きみらの〈父〉もきみらの罪を許しはせぬ。

そして一心に話して聞かせるキリストの顔の上に……

 夜鳴き鶯の歌声が続く。

 溶明。




       36 山の上。野外 朝 


春の朝にふさわしい優しすぎる光り。夜鳴き鶯に代わって雲雀が陽気に囀りつつ、その燦然たる快活さで大気を満たしてゆく。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

キリスト きみらは断食するとき、偽善者のごとく、悲しげに沈んだ顔をするな。彼らは断食することを人に見せようとて、顔を見苦しくする。
 断っておくが、彼らはすでに報いを受けている。
 だがきみは断食するとき、頭に香油を塗って顔を洗え。きみの断食が人に気づかれず、隠れたところにいるきみの〈父〉に見てもらえるように。そうすれば、隠れたことを見ているきみの〈父〉が報いてくださる。

溶暗。 




      37 山の上。野外 昼


いまはまた真昼が戻ってきた。雲雀に代わって燕が空狭しと、幸せに鳴き交わしている……
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

キリスト きみらは財宝を地に積むな、ここは虫と錆とが損ない、盗人が押し入ってきて盗んでゆく。きみらはおのれのために財宝を天に積め。あそこは虫と錆とが損なわず、盗人が押し入りも盗みもしない。きみらの財宝のあるところにこそ、きみたちの心もある。
 身の燈火は目である。それゆえきみの目が澄んでいれば、きみの全身も明るい。しかしきみの目が病んでいれば全身もくらい。それゆえもしきみの内の光り、闇ならば、その闇の暗さはいかばかりか!
 人はふたりの主に兼ね仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、いずれかだ。きみたちは〈神〉と富とに兼ね仕えることは出来ない。

溶暗




       38  山の上。野外 昼


太陽が傾きはじめて、突然、遠く彼方から、甘い調べや歌声が聞こえてくる。谷間で誰かが労多い一日の終りを祝って、その貧しくも、底知れぬ陽気さを奏でている。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

キリスト それゆえ言っておくが、きみらは何を食べようか、何を飲もうかと、生命のことを思い煩い、何を着ようかと身体のことを思い煩うな。
 生命は糧に勝り、身体は衣服に勝るではないか? 
 空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、それでも天のきみらの〈父〉は鳥を養う。きみらは鳥よりも価値ある者ではないか?  
 それにきみらのうち誰が思い煩ったからとて、寿命を一瞬でも延ばせようか?
 また衣服のことで、なぜ思い煩うのか? 
 野の百合はいかにして育つかを思え。野の百合は労せず、紡がず。それでも言っておくが、栄華を極めたソロモンでさえ、その装いはこの花の一つにも及ばなかった。今日生えて明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、〈神〉はこのように装われるのなら、ましてきみらはなおさらではないか、信仰薄き者たちよ?
 だから何を食べようか?とか、何を飲もうか?とか、何を着ようか?とか言って思い煩うな。これらはみな異教徒が切に求めているものだ。天のきみらの〈父〉はこれらのものすべてがきみらに必要なのをご存じだ。何よりもまず〈神〉の国と〈神〉の正義とを求めよ、そうすればこれらのものすべては加えて与えられる。
 それゆえ明日のことを思い煩うな、明日は明日みずからが思い煩うことだろう。一日の苦労はその日だけでたくさんだ。

溶暗




       39 山の上。野外 夜


闇の中で、春の雨がいまは柔らかく降りそそぐ。キリストの顔はすっかり雨に濡れて、やさしさを増して光る。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

キリスト きみらは人を裁くな、きみらも裁かれぬようにするためだ。
 きみらはおのれの裁く裁きで裁かれ、おのれの量る秤で量られる。
 きみは、兄弟の目にある藁屑は見えるのに、なぜおのれの目の中の梁に気がつかぬのか?
 見よ、おのれの目の中に梁があるのに、どうして兄弟に向かって言えようか、おまえの目から藁屑を取らせてくれ、などと?
 偽善者よ、まずおのれの目から梁を取り除け。そうすればよく見えて、兄弟の目から藁屑を取り除くことが出来よう。
 聖なる物を犬に与えるな、また真珠を豚の前に投げるな。足で踏みにじり、向き直ってきみらに噛みつき引き裂くことだろう。

溶暗。 




      40 山の上。野外 昼


昼になるにつれて雨脚が繁くなってきた。激しい横殴りの雨、また風、さらにまた雷鳴と稲妻が、雨滴の滴り落ちるキリストの顔に条をつけてゆく。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

キリスト 求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。
 誰でも、求める者は得、尋ねる者は見出し、門を叩く者には開かれる。
 きみらのうち誰が、パンを欲しがるおのれの子に、石を与えるだろうか? 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか? 
 このように、きみらは出来の悪い者ながら、おのれの子らに善い物を与えることは弁えている。
 まして天にいますきみらの〈父〉は、求める者に善い物を下さるに違いない。それゆえ人にしてもらいたいと思うことは何でも、きみらも人にしなさい。これこそ〈預言者の律法〉であるのだから。

溶暗。 




      41 山の上。野外 夜


月夜である。月はその黄金色の涎で、キリストの顔の輪郭に沿って軽やかなしるしを描いてゆく。遠くではまた甘い調べが奏でられはじめた。月夜の晩に、広い谷間のどこかの通りで、誰かが踊っている。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

キリスト 狭き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者多し。
 しかし生命にいたる門はなんと狭く、その路は細く、これを見出す者のなんと少ないことか! 

溶明




       42 山の上。野外 昼


太陽はキリストの背後にある、そして彼の頭の回りに一種の光のコロナを形づくっている。
語り続けるキリスト、そのクロースアップ

 キリスト 偽預言者に心せよ、羊の扮装をして来るけれども、内は奪い掠める豺狼だ。
 その実によって彼らを見分けることだ。茨より葡萄を、薊より無花果を採る者がいようか? 
 このようにすべて善い樹は善い実を結び、悪い樹は悪い実を結ぶ。善い樹が悪い実を結ぶことはなく、悪い樹は善い実を結べない。
 善い実を結ばぬ樹はみな伐られて火に投げ入れられる。それゆえその実によって彼らを見分けることだ。
 われに向かって「〈主〉よ〈主〉よ」と言う者みなが天国に入るわけではない。ただ天にいますわが〈父〉の御心を行う者だけが入るのだ。かの日には多くの者がわれに、
 「〈主〉よ〈主〉よ! われらは御名によって預言し、御名によって悪鬼を追い出し、御名によって多くの奇蹟をなしたではないか?」
 と、言うことだろう。だがそのときはきっぱりと彼らに言おう、
 「おまえたちのことはまるで知らない。不法をなす者ども、われから去れ!」
 、と。

溶暗




       43 山の上。外 昼


光りはキリストが山上の講話を始めたときと同じなのに、いまは彼の言葉のバックに、バッハの楽曲「いと高き者」が響きわたる。

バッハの楽曲「いと高き者」。 

 語り続けるキリスト、そのクロースアップ

キリスト それゆえこれらのわが言葉をききて行う者を、岩の上に家を建てた慧い人に擬えようか。
 雨降り流れ漲り、風吹き荒れてその家を襲ったが、倒れなかった。岩の上に建てられていたからだ。
 これらのわが言葉をききて行わぬ者を、砂の上に家を建てた愚かな人に擬えようか。
 雨降り流れ漲り、風吹き荒れてその家に打ちかかると、崩れてしまい、その崩れ方が甚だしかった。

そうして山腹で耳を傾ける大群衆の上に……

溶暗。   




    44  ガリラヤの地(2)。野外 昼
              (イスラエル)

歩みくるひとりの男、その移動撮影、ついでクロースアップ。ひとりの男? 
身の毛のよだつ顔だ、皮が剥がれ落ち、鼻の在るべき所に穴が空いて、疥癬の膿んだ傷口が頬の肉を蝕んでいる……
相変わらずクロースアップのまま、男は歩みきて跪く、ついでパン撮影。男はキリストを仰ぎ見る。落着き払って歩みくるキリスト、後には使徒たちと大群衆が続く──移動撮影が先導する。癩病人のぞっとするクロースアップ、被せて移動撮影

癩病人 〈主〉よ、あなたが望めば、わたしを清くすることが出来る。

いまはじっと佇んで、彼を見つめるキリスト、そのクロースアップ。底知れぬ憐れみを込めて。癒す力は憐れみにある。卑しいぼくらの憐れみの何千倍もの憐れみを込めねばならない。

キリスト ぼくは望む、清くなれ。

癒されて立ちあがるが、なおもおのれの幸せを理解できずにいる癩病人、そのクロースアップ、ついで全身撮影
(最前は病に、いまは癒しに)慈しみと憐愍に溢れんばかりのキリスト、そのクロースアップ

キリスト 気をつけて誰にも話さぬように。ただ行って、司祭に身体を見せ、モーゼの定めた供物を捧げて、彼らへの証拠となさい。

キリストの顔の上に……

急速な溶明




       45 カファルナウム。外 昼(イスラエル)


歩みくるひとりの男、その移動撮影、ついでクロースアップ。彼は兵士、百卒長で、健やかで逞しい男の眼差しでキリストを眺める。落着き払って歩みくるキリスト、後には使徒たちと大群衆が続く──移動撮影が先導する。百卒長の顔を、移動撮影

百卒長 〈主〉よ、わが従卒、家に寝込んで中風を病み、ひどく苦しんでます……

いまはじっと佇んで、彼を見つめているキリスト、そのクロースアップ

キリスト ぼくが行って、癒そう。 

百卒長、そのクロースアップ

百卒長 〈主〉よ、自分は〈主〉をおのが屋根の下に入れるに相応しからぬ者であります。ただ一言のみ賜れば、わが従卒は癒されます。自分も上官をもつ身ではありますが、わが下にも兵があり、甲に「往け」と命じれば甲は往き、乙に「来い」と命じれば乙は来ます。また、わが従卒に「これせい」と命じれば彼はそれをします。

キリストのクロースアップ、その顔にはいまや気高い快活さの光がある(眸の奥で光り輝く神秘的な「ユーモア」の光)。

キリスト はっきりと断っておく、イスラエルじゅうの誰にもこれほどの信仰は見なかった。言っておくが、多くの人が東からも西からも来て、天国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに宴に列なるであろうが……

彼が話している間、一心にその言葉に耳を傾けている顔々の列、それをゆっくりと パン撮影

 ……御国の子らは外の闇のなかへ追い出されて、そこで泣いて歯噛みすることがあるであろう。

いまは「癒す憐れみ」に鼓吹されて、頬を紅潮させたキリスト、そのクロースアップ

キリスト 往け、きみの信ずるごとくなれ。

急速な溶暗。  




     46 ぺテロの家。屋内 昼(イスラエル)


移動撮影、全身撮影、そしてクロースアップ。小さなベッドのうえの老婆は苦しみ呻いて、もう臨終の苦悶が始まったかのようだ。彼女は何も見ず、何も聞かず、病の闇の底深く沈み込んでいる。
危篤の人の粗末な部屋へ入るキリスト、その全身撮影。そして彼女に近寄る彼、その後ろからパン撮影
憐れみを込めて見守るキリスト、そのクロースアップ。それから彼女の傍らに腰を降ろして、その手を取る。
苦しみから抜け出して、この世の意識を取り戻し──感謝の目でキリストを見る老婆、そのクロースアップ
やがて相変わらずクロースアップのまま、ついでパン撮影で、哀れな女は死の床から起きあがり、ショールを身に纏うと、外に出てゆく……
粗末な空のベッド、狭い部屋の惨めな家具、惨めな中庭──あるいは湖に臨む小窓と向かい合って、ひとりぽっちのキリスト、その全身撮影。あたりに人びとの声、絶叫、歓声、笑い声が沸き起る……

 家の中に沸き起る陽気な声々。

ほらそこに、開け放したままの戸口に、あの老婆が嬉しそうに、花々に覆われた贈物のぎっしり詰まった素焼きの大皿を両腕に抱えて持ってくる。彼女のまわりには使徒たちや、親類──女たち男たち、母親のスカートにしがみつく子供たちが、みな嬉しそうに顔を覗かせる……
このシーンの上に、バッハの楽曲「プロフェーティカ」が沸き起り、預言の言葉が聞える。

バッハの楽曲「プロフェーティカ」

預言の言葉 彼は自らわれらの患いを負い、われらの病を担った。

 急速な溶暗。    




   47  カファルナウムの港。野外 昼
               (イスラエル)


混沌たるざわめきたつ大群衆、その移動撮影。細部はアドリブで。野宿する人びと、呻吟する病人たち、遊び回る子供たち、楽器を掻き鳴らす若者たち、それらを移動撮影

 民衆詩を爪弾く、楽器の調べ。

痛ましくも無定形なあの人波を、痛々しく見守るキリスト、そのクロースアップ。心乱れて、彼は湖を眺める。

キリスト(心が晴れて) ついておいで。向う岸へ渡ろう。

そして向きを変えると、湖の方へ歩きだす、その後を使徒たちや群衆が続く。
羽振りのいい服を纏い、羊皮紙の大きな包みを小脇に抱えた律法学者が、人波に揉まれて、あたふたとキリストと肩を並べに小走りにくる、その移動撮影、ついで全身撮影。キリストの脇を歩みくる律法学者、その移動撮影、ついでクロースアップ

律法学者 師よ、師の往かれるところへは何処へでもお供します……

歩みくるキリスト、その移動撮影、ついでクロースアップ

キリスト 狐には穴があり、空の鳥には塒がある、だが人の〈子〉には枕する所さえない。

群衆の間を歩いていたのに、つと離れたもうひとりを、いまは移動撮影、ついでフレイミングして全身撮影。内心の躊躇いが切なく顔に出ていた、あの名も知れぬ弟子である。彼は足を速めて、キリストと並ぶ。
キリストの脇を歩みくる弟子、その移動撮影、ついでクロースアップ

弟子 師よ、まず父を葬りに往かせてください……

歩み来ながら、厳しく、応えるキリスト、その移動撮影、ついでクロースアップ

キリスト われに従え、死者は死者たちに葬らせるがいい。   





    48  カファルナウムの港。野外(イスラエル) 
 渚に引き揚げられた小舟、その移動撮影
キリスト、その後を使徒の一団が続く、さらに遅れて、小舟めざしてやって来る群衆、これらのパン撮影
彼方で使徒たちが舟を湖に押し出す、そのロングショット
すると群衆も我がちに犇めきながら、些か熱の嵩じ過ぎたその熱狂ぶりを省みるまもあらばこそ、ほかの舟に飛びついて、大声で喚きながら舟を湖へ押し出す。
空は、俄に掻き曇った。

 凄まじい雷鳴。

 急速な溶暗。 






      49 湖の真っ只中。野外 昼。湖


索具とタール塗りの板に凭れて、安らかに熟睡するキリスト、そのクロースアップ。あたりは大時化。
時化のアドリブのシークエンス──これと交互に無邪気に眠りこけるキリストのクロースアップ。ついに何人かの弟子がたまらずキリストに駆け寄って、彼を揺り動かし、起こそうとした。

使徒 〈主〉よ、お救いください。みな死んでしまいます。

キリストのクロースアップ、そして起きあがるキリストのパン撮影

キリスト なぜ臆するか、信仰薄い者たちよ?

そして湖を眺める。すると、いまは波穏やかに湖は凪いで、雲ひとつない空のもと、甘美な湖水が広がる。あたりにはいまはほかの舟も穏やかに、こちらを眺める群衆を乗せて、走っている。

遠くの声(ほかの舟からの) いったいあのお方はいかなるお方か、風や湖まで従うとは?

舟の板は心地好く軋り、舳先に当たる波音も耳に快い。
一叟の舟の甲板で、群衆のひとりが楽器を引き寄せて、いまはその調べが太陽と湖水の平安の中に甘く響きわたる。

溶暗




       50 ガダラ付近の湖畔。野外 
                                             昼(ヨルダン)


岩だらけの斜面の上の山肌に、ガダラの町が遙か遠くに見える。

遠くの喚き声。

麓に、豚の群れがいて、豚飼いたちがいる。そこは日溜まりの墓地だ。そしてまさにそこから獣染みたわめき声が、鳥肌が立つくらい、凄まじく聞えてきた。

ずっと近くの喚き声。

耳朶を打つ、凶暴な喚き声。 二人の男というよりも、二匹の獣が、墓石の間から身をこごめて走り出て、叫びながら群衆に跳びかかる──人々は算を乱して、石だらけの岸辺に引き揚げたばかりの舟のほうへ逃げ帰った。二匹の獣はいまやキリストの眼の前にいる。

悪鬼に憑かれて喚く男の内なる声 〈神の子〉よ、われらとおまえと何の関わりがある? 時到らぬのに此処へ来てわれらを苦しめるのか?

底知れぬ憐れみに衝き動かされて、キリストは彼らめがけて踏み出す。二匹の哀れな生き物は、われを忘れて、歯を剥きだしながらキリストの足元で転げ回り、絶え間なく喚き呻く。と、彼らの内からまた声がする。

悪鬼に憑かれた男の内なる声 もしわれらを追い出すのなら、あの豚の群れのなかに送り込んでくれ!

群れのほうを見やるキリスト、そのクロースアップ。 見よ、彼方に、乾いた山肌に豚たちが群れをなし、長閑に鼻を鳴らしている。

キリスト 往け!

たちまち群れは沸き返って、等々。豚飼いの制止もものかは、豚たちは湖岸の断崖に突進して、喉を掻き切られたみたいに鳴きながら、等々。

 獣と人間の叫び声がいっしょくたになって、物凄い喚き声のコーラス。蛇の堀にも似つかわしい絶叫。

砂塵の中に押し寄せる毛深い背中の波や恐ろしい鼻面、等々の、それから、湖面に降り注ぐ肉体の雨の、アドリブのフレイミング。
穏やかな水面に鳴き喚きながら身を投げた群れ全体の壊滅のあとに、砂塵が消え去り、喚き声も弱まって……

徐々にか細くなってついには消えてゆく喚き声。

……見よ、彼方で、こんどは豚飼いたちが叫び交わしつつ、遠く微かにしか聞えぬが、ガダラの町の人々を呼んでいる。
キリストはいま、晴々とした憐れみを込めて、悪鬼に憑かれた二人の男を見つめる。その二人も、人生の晴朗さに打たれて唖然としてキリストを見つめている。そして彼らのひとりが跪いて祈る。
だがそのときガダラの町から、白茶けた山肌を麓へ──豚飼いたちに率いられて──一群の男たちが下ってくる。声の届く距離までくると立ち止まり、一同の中のひとり、見違えようもなく親方であろう老耄、あの田舎町の暴君が──下男たちに囲まれ、野蛮なほど豪奢な衣裳に身を固めて──キリストに向かって怒鳴る。

ガダラの老人 おまえさんに頼むんじゃが、われらの土地から出ていってくれ。

大人しく背を向けて、舟のほうへ下ってゆくキリスト、その全身撮影、その後に続く使徒たち。そして無言のうちに、舟という舟はまたもや湖に押し出される。

溶暗。   





    51 カファルナウムの街道。野外 昼
                (イスラエル)


さてカファルナウムの「パノラマ」を新たに移動撮影(キリストの最初の到着時にすでに見たのと同じように)。
そして、見すぼらしい田舎道で──切れ目なしに──新たな移動撮影、半ば崩れかかった窓、その窓の奥にハンモックに臥す中風病みが見える。
信奉者たちの間を歩みくるキリスト、その移動撮影、ついでクロースアップ。彼は立ち止まって、骨と皮ばかりの黙りこくった病人を見つめる。
見つめ返す病人の二つの眼、あの顔の中でたったひとつ生きているもの、そのディテール撮影
底知れぬ憐れみに沈むキリスト、その最大接写

 キリスト(とても低い声で、心の裡に言うみたいに) 子よ、心安かれ、おまえの罪はゆるされた。

全景のロングショット。キリスト、中風病み、群衆、そしてずっと後ろに離れてひと固まりの律法学者。
会堂の広間を背に──群衆の中でひときわ目立つ権力者の衣裳を纏った学者らを切離してつぶさに映し出す移動撮影
彼らの一人がこの男もごく小声で、心の裡に言うみたいに呟く。

律法学者 この男は涜している……

全景の全景撮影。キリストはそれが聞えたかのように、病人をハンモックに残したまま人込みを掻き分けて、律法学者たちのほうへ往き、呟いた男の前に立ち止まる。
叱りはするが、憎しみや恨みや酷しさをまじえずに、律法学者に話して聞かせるキリスト、そのクロースアップ

キリスト なぜ心に悪しきことを思うのか? 「おまえの罪はゆるされた」と言うのと、「起きて歩め」と言うのと、いずれがたやすいか?

喧嘩腰で無言でキリストを睨むが、敢えて言い返そうとはしない律法学者たち、そのクロースアップに被せてパン撮影
このシーンの新たな全景撮影。そしてキリストは律法学者らから中風病みの許へ、来た道を取って返す。
中風病みの前に立つキリスト、そのクロースアップ

キリスト 起きよ、床を払って、おまえの家へ帰れ。

哀れな骨と皮ばかりの男は起きあがり、キリストのほうを見つめる。
涙と喜びに煌めく彼の眸、そのディテール撮影

溶暗。  





   52 湖畔のカファルナウムの城門。野外
                          昼(ベトサイダ)

雑踏と、広場と、牝山羊と駱駝などのごった返すカファルナウムの城門、その全景撮影から、税関ベンチに坐って記帳を続けるマタイの全身撮影ディテールに至るまで、移動撮影。一大「定番」で、このシーンでは決まって(当時も今も)都市の玄関の日常生活の現実が、イタリア絵画の偉大な伝統である構成眼をとおして見られている(このフィルムのあらゆるスペクタクルな部分や周辺の部分と同様に)。
これらの悉くがキリストによって「見守られた」ことと同じで、その彼はマタイに目を止めた、そのキリストのクロースアップ。 とうとうマタイはあの眼差しに何となく惹かれて、取税人としての記帳を中途で止めて──あそこ、塵埃や、幼い少年たちや雑踏の中で──自分も目を上げて、問いたげに見つめ返す。
キリストのクロースアップ

キリスト われに従え!

立ち上がって彼のほうへ来るマタイ、その全身撮影。   




    53 カファルナウムの宴会場と街中。
        屋内=屋外 昼(イスラエル)


 鮮やかな齣移動、一方呆れるほどに楽しげにモーツァルトの曲が炸裂する(曲中では聖なるものと俗なるものが奇蹟的に混淆する)……

 モーツァルトの楽しげな曲。

……さてここにもう一つ、「定番」の「リアリスティック」な一大シーン。それはある正餐の全景撮影で、大絵画を前にしたかのように撮影レンズはじっと動かない。
見よ、御馳走を──ルネッサンスの大フレスコ画向きの美的豪華さと、同時に、カファルナウムという湖畔の小世界の未開の神秘をもって──並べた食卓の後ろに、キリスト、マタイ、ほかの最も敬虔な使徒たちがいる。
しかし、彼らと一緒に、その元来荒削りな人間性のゆえに卑俗でがさつな、マタイの若い友人たち、宗教問題にはまったく疎遠な「世俗の」人たちがいる。
しかも彼らと一緒に彼らの女たち、その明白な職業ゆえに卑俗なうわべの優雅さに満ちた女たちがいる。けれどもキリストが身近にいるので些か気後れしてか、控え目で行儀がよい。女たちの間には、たしか、マグダラのマリアもいるかもしれない。
まわりには、乞食たちや、貧乏人の子たちや、楽士たちがいる。
するとそこに、何人かファリサイ派が歩みくる、その全身撮影、ついでパン撮影。あの陽気な宴会の前を、彼らは立ち止まりもせずに、通り過ぎる、その後を相変らずパン撮影
歩みゆきつつ、会食中の使徒たちを振返って、ファリサイ派のひとりが言う、そのクロースアップ、ついでパン撮影

ファリサイ派(皮肉に) いったいなぜあんたらの師は取税人や罪人と一緒に食事をするのかね?

眼で彼らの通過を追いながら、応えるキリスト、そのクロースアップ

キリスト 健やかな者に医者は要らぬが、病む者には必要だ。それゆえきみらは行って学ぶがよい。
 「われの欲するは憐れみにて、生贄にあらず……」
 とは、どういう意味かを。

立ち止まりもせずに通り過ぎながら、もうほとんど肩ごしに、皮肉に見返すファリサイ派、その全身撮影に被せてパン撮影

キリスト(言い聞かせようと、初めて声を高めながら) 実際、われの来たるは、正しき者を招かんとてにあらず、罪人を招かんとてなり!

通り過ぎて、いまは背を見せつつ、立ち去ってゆくファリサイ人たち、その全身撮影、被せてパン撮影。 空に舞う雌鳩たち(これと同じ飛翔をヨハネは監獄で見守ったのだった)そしてあの飛翔の下を、敬虔な様子の男たちが宴会場へと、リバースショットで、歩みゆく。
彼らは歩み来て、その全身撮影、ご馳走を並べた食卓の前で立止まる。ヨハネの弟子のクロースアップ

ヨハネの弟子 われらとファリサイ人とは断食しているというのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのか?

モーツァルトの曲が一段と楽しげに響きわたる。

 キリスト 花婿の子ら、花婿と共にある間は、どうして喪に服すことが出来ようか?

 にわかに音楽が途絶える。

キリスト 花婿が子らから奪い取られる日々が来るだろう、そのときこそは彼らも断食するであろう。

継ぎの当った服を纏った下男が話に耳を澄ませている、その全身撮影

 ……誰も新しい布切れで古き衣を継ぎはせぬ。そんなことをすれば、補った新しい布切れが古い衣を引っ張って、綻びは一層酷くなってしまう。

召使たちがそのまわりに集まって、葡萄酒を注ぎ入れる支度をした何袋かの革袋、その全体撮影

 ……また新しい葡萄酒を古き革袋に入れもしない。そんなことをすれば、袋は破れて酒はこぼれ落ち、革袋も使い物にならなくなってしまう。だから新しい酒は新しい革袋に入れて、両ながら長持ちさせるのだ。

彼がこのように話している間に、画面外で絶望しきった声が聞える。

会堂の司の声 〈主〉よ、〈主〉よ!

駆け入ってきて、その後からパン撮影、宴会の前に立つ会堂の司、その全身撮影
それから相変らず後からパン撮影、キリストの前に立ち止まるまでクロースアップ

会堂の司 わたしの娘がたったいま死にました。ですがいらして、御手を娘の上に置いて下さい、そうすれば娘は生き返ります。

キリストは立ちあがり、その全身撮影、弟子たちとともにその後からパン撮影、ご馳走の並んだ食卓を後にして、みな後ろ姿をロングショットで撮られつつ、日の照りつける街道をゆく。
しかしひとりの病んだ女が埃の中にうずくまって、ぱくりと裂けた低い壁に凭れ、顔は蠅に覆われたまま、一行の通るのを見守っている、その全身撮影
一行は、その後からパン撮影、彼女の前を通り、はや後ろ姿となる。
女の目、恐ろしく血の気の引いた、蠅だらけのあの顔の中で、たった一つ活き活きしている、その目のディテール撮影。

 女 彼の外衣の裾にでも触れることが出来たなら、あたしは治るのに……

そして残るわずかな力を振り絞って女は立ちあがり、キリストの外衣に手を触れる、その女の全身撮影。そのときキリストは早や後ろ姿だったが、彼女のほうに向き直る。
キリストのクロースアップ。

 キリスト 娘よ、しっかりおし、おまえの信仰がおまえを救ったのだ。

涙と喜びの漲る──明るく清められて晴々とした顔から──見あげる女の二つの瞳、そのディテール撮影。 死者の家を見やりながら、無言で歩みくるキリスト、使徒たち、会堂の司、その全身を捉えつつ移動撮影。その家に向けられた移動撮影車の撮影レンズが葬式を映し出す。楽士たちが葬送の曲を奏で、女たちが金切り声を立てて泣いている(「定番の」新たな一大ショット、など)。
じっと動かず、厳しい顔のキリスト、そのクロースアップ

キリスト 退け、少女は死んだのではない、眠っているのだ。

信じられずに、誰もが口を噤む、そのロングショット
キリストが家へ入る、その全身撮影




54 会堂の司の家。屋内
            昼(イスラエル)


死の静寂の中を、死んだ乙女の横たわる身体をゆっくりと移動撮影
彼女に近寄って、死の中に失われたそのあどけない美しすぎる顔を、憐れみを込めて見つめるキリスト、その前からの移動撮影
彼女の手を取るキリスト、その全身撮影
目を開ける乙女、そのクロースアップ
驚きと笑いの漲る眸、そのディテール撮影。 



      55 カファルナウムの街中。野外 昼
                   (イスラエル) 
会堂の司の家から遠ざかりゆくキリストと使徒たち、その全身撮影、被せてパン撮影
彼のほうへ、必死に手探りしつつ、躓きつつ、親類たちに支えられて、走ってくる二人の盲、そのパン撮影。


 盲 ダヴィデの子よ! わたしらを憐れみたまえ。

 キリストのクロースアップ。

キリスト きみらはぼくにそれが出来ると信ずるのか?

 はい、〈主〉よ!

キリストが彼らの目に手を触れる、その全身撮影。

 キリスト きみらの信仰のごとく、なれ。

 喜びにきらきらと輝く、盲たちの開かれた目、そのディテール撮影。 キリストのクロースアップ。

 キリスト 気をつけて、誰にも知られるな。

群衆の間を狂喜して駆け抜ける二人の盲、その後を親類たちが追う。その盲たちの全身撮影

盲たち ダヴィデの子が、わたしらの目を治された!

さてここに、リバースショットで、一行が会堂のポーチ前に通りかかると、律法学者やファリサイ派が羊皮紙を手に屯していたが、そこへ野獣にも似て荒れ狂う気狂いをやっとのことで一団の人びとが曳きずってくる。
この一団の人たちはパン撮影を後ろに引き連れ、キリストのほうへ、全身撮影で、やって来る。
教養人の家である彼らの会堂から、このシーンを眼で追っている権力者の顔という顔、その顔々をパン撮影
見よ、あちらにキリスト、その全身撮影、その前に気狂いを引き据えた一団がいる。
すると、見よ、気狂いがだんだん鎮まってきて、向こう向きのままじっとしている。それから、感謝するかのようにキリストの前に跪く。
うわべから見るかぎり、権力者たちの顔には別に卑しむべきところも邪悪なところも見当らない。
それどころか彼らはおのれの信仰と慣例を信じかつ守る、知識人の知的顔立ちをしている。
そしてこのような奇蹟を目の当りにしても、無知な人びとの迷信を前にした教養人の態度を、彼らは崩そうとしない。
ほかの者よりも粗野で頑迷、あるいは狂信的なひとりのファリサイ人、そのクロースアップ

ファリサイ人 悪鬼どもの頭(かしら)の力で、彼は悪鬼を追い出すのだ。

溶暗。 




      56 ガリラヤの街。野外 昼
                           (イスラエルまたはヨルダン)



さてここに、ゆっくりとした移動撮影に映し出されて──雑踏の中を歩みゆくキリストが見たのと同じ──絶望しきった哀れな群衆が街中の塵埃の中に、泥濘の中にいる。
悪鬼に取り憑かれた人たち、その移動撮影。盲いた人びと、その移動撮影。中風病みたち、その移動撮影。歩みくるキリスト、そのクロースアップと代わる代わるに、前から移動撮影、辺りを眺めてゆく。
いまやキリストはじっと立ちつくす。

キリスト(心の裡に言うかのように) 彼らは羊飼いなき羊たちみたいだ…… 

 ……それからまわりを見回して、弟子たちに……
……そして彼が話しだすのを待つ弟子たち、そのパン撮影

キリスト 刈り入れるべき穂は多いのに、働き手が少ない。それゆえ刈り入れの主にその収穫のための働き手を遣わしてくださるよう祈れ。

途中で言い止めて、おのれの弟子たちを見やるキリスト、そのクロースアップ
息をひそめて師の言葉を一心に待つ弟子たちの顔という顔、そのパン撮影
キリスト、そのクロースアップ。

 キリスト ペテロ……アンデレ、ヤコブとヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスとマタイ、アルファイの子ヤコブ、タダイ、シモン、イスカリオテのユダ……

次々と名前が響きわたるごとに、選ばれた弟子たちひとりひとりをクロースアップ
キリストのクロースアップ。

 キリスト きみたちが刈り入れの働き手となろう。

そして歩きだす、全身撮影移動撮影に先導させて。彼の後には一団となって十二人の使徒が歩みゆく。
非常に長い、果てしない移動撮影。その移動撮影が、歩みゆく一行に先行して、後方に彼らの往く道を露わにしてゆく、果てしない事物と人びとの慎ましい多様性。
一方には下水漲る溝、他方には小さな家々の上塗りの剥がれ落ちた低い壁。そして思いがけなく草木と花々が生い茂り咲き誇っているかと思えば、塵芥の山、そして半裸の楽しげな少年たち、老婆に老人、乳飲み子を抱く母親たち、牝山羊、羊の群れ、通り過ぎる金持たち……
あたりの暮らしはいつもと変わらずに繰り広げられている。なぜなら対話はいまはキリストとその使徒たちの間だけで、密やかにひたむきになされているからだ。
それゆえ惨めな街道を往くキリストと使徒たち、その全身撮影、先行する移動撮影

キリスト  異教徒の通りを往くな、またサマリア人の町にも入るな。むしろイスラエル人の家の失われた羊たちのもとに行け。
 そして行って述べ伝えるのだ、天国は近づいた、と。
 病む者を癒し、死者を甦らせ、癩病みを清め、悪鬼を追い出せ。
 きみらの力はただで授かったのだから、ただで与えよ。きみらの帯の中に金も、銀も、銭も溜めこむな。
 旅の袋も、二枚の下衣も、鞜も、杖も持つな。なぜなら労する者に食物の権利はあるのだから。
 どの町、どの村に入るとも、その中に相応しい者を尋ねだして、発つ日まではそこに留まれ。
 その家に入る際には平安を祈れ。その家がこれに相応しければ、きみらの祈る平安はその家の上に宿る。もし相応しくなければ、その平安はきみらのもとに戻るだろう。
 そしてもし誰かきみらを泊めず、きみらの言葉を聞かぬ者があれば、その家を出る際、またその町を出る際にはきみらの足の塵を払え。

「そしてもし誰かきみらを泊めず云々」の言葉あたりから、低く流れ出して広がってゆく……

…… バッハの「いと高き者」の楽曲が最後の言葉まで強く鳴り響く。

歩みゆきながら話して聞かせるキリスト、そのキリストに先行して移動撮影しながら、クロースアップ。

 キリスト 断っておくが、審判の日にはその町よりもソドムやゴモラの地のほうが軽い罰で済むことだろう。

再び移動撮影に先導されて進みゆく一行、その全身撮影。いまはキリストは短い沈黙の中に思いを凝らしている──バッハの「いと高き者」の楽曲が消え失せた。やがてまた語りはじめる。

キリスト 見よ、ぼくがきみたちを遣わすのは、羊を狼の群れの中に入れるにも似る。
 それゆえきみらは蛇のように用心深く、鳩のように純真になれ。
 人びとには注意せよ、きみらを地方法院に引き渡し、彼らの会堂できみらは鞭打たれるだろうから。
 そしてぼくゆえにきみらは総督や王の前に引き出されて、彼らや異教徒に証言を迫られることだろう。
 だが彼らの手に落ちたからとて、何をいかに話そうかと思い煩うな。
 そのときには言うべきことは授けられるのだから。
 実際は話すのはきみらではなく、きみらの中で語る〈きみらの父〉の〈霊〉なのだ。

バッハの「いと高き者」の楽曲が再び低く奏でられだす。

 キリスト ……兄弟は兄弟を死に引き渡し、息子たちは両親に抗いたって死に追いやることだろう。
 そしてきみらはわが名のゆえにすべての人に憎まれることだろう。
 けれども最後まで辛抱強く続けた者だけが救われるのだ。
 だからこの町にて迫害されるときにはあの町に逃げよ。

 バッハの「いと高き者」の楽曲が力強く爆発する。

 移動撮影に先行されてキリストのクロースアップ、彼がいっそう力強く語りかけながら歩みくる。

キリスト ……なぜなら断っておくが、きみたちがイスラエルの町という町を巡りつくさないうちに、人の〈子〉がくるであろうから。

 音楽が止む。 

 再び執拗に移動撮影が先行して、キリストと使徒たちの全身撮影、一行はますます荒れ果てた街道を進みゆく。キリストは黙って思いに沈む。やがてすぐにまた語りだす。

キリスト 師にまさる弟子はなく、主人にまさる僕はいない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで足りる。
 もし家の主人を悪鬼の頭ベルゼブルと呼ぶのであれば、その家の者はいっそうひどく言われることだろう! 
 だから彼らを恐れるな、隠れたもので知られないものはなく、覆われたもので露われないものはないのだから。
 闇の中でぼくがきみらに語ることを、きみらは光の中で語れ。そして耳打ちされたことを、屋根の上から言い広めよ。
 また身体は殺せても魂を殺せない者どもを恐れるな。むしろ魂も身体も地獄で滅ぼしうる者を恐れよ。
 二羽の雀は一銭で売っているではないか? 
 それでもその一羽でさえ、きみらの〈父〉の許しがなければ、地に落ちはしない。 きみらの頭の髪の毛さえみな数えられている。だから恐れるな。きみらはあまたの雀たちよりもはるかに勝っているのだから。
 それゆえ人びとの前でぼくを知っているという者を、ぼくもまた天にいますわが〈父〉の前でその者を知っていると言おう。
 だが人びとの前でぼくを知らないと言う者は、ぼくも天にいますわが〈父〉の前でその者を知らないと言おう。

 バッハの「いと高き者」が強烈に爆発する。

 キリスト ぼくが地に平和をもたらしに来たと思うな。平和にあらず、剣をもたらしにきたのだ。
 ぼくが来たのは人をその父から、娘をその母から、嫁をその姑から分つためなのだから。
 こうして人の敵はその家の者となるだろう。
 ぼくよりも父や母を愛する者は、ぼくに相応しくない。そしてぼくよりも息子または娘を愛する者はぼくに相応しくない。
 おのれの生命を得る者はこれを失い、ぼくゆえに生命を失う者はこれを得るだろう。

バッハの「いと高き者」がいままた低く始まり、話の終りに消えてゆく。

最前のこのうえなく気高い言葉のあと、ずっと落ち着いた小声で再び語りだすキリスト、そのクロースアップ(相変わらず移動撮影が先行して前へ進みながら)。

キリスト きみらを迎え入れる者はぼくを迎え入れ、ぼくを迎え入れる者はぼくを遣わした方を迎え入れる者だ。
 預言者を預言者として迎え入れる者は預言者と同じ報いを受け、正しい人を正しい人として迎え入れる者は正しい人と同じ報いを受ける。
 そしてぼくの弟子だからという理由で、これら小さき者のひとりに冷たい水一杯にても渇きを癒させる者は、断っておくが、必ずその報いを受け取ることだろう。

そして歩みゆくキリストの霊感を受けた顔の上に……

溶明 




57  空。野外 昼(マケロンテ。
             ヨルダン、死海)


中空を曰くありげに、旋回する雌鳩たちの飛行。






  58  独房。屋内 昼(ヨルダン)」


 監獄の薄暗がりの中で鎖に繋がれているヨハネ、そこに一条の光が差し込む。彼は祈りに精神を集中している。蓬髪の頭を胸の上にうなだれて。
しかしやがて頭を起こしながら、おのれの前を見据える。何事かに苦悶して顔を曇らせながら確信の持てぬままに、悩んでいるように見える。


ヨハネの内心の声 来るべき者は彼だろうか、それともわれらはまだほかの者を待たねばならないのだろうか? 




    59  ガリラヤのある田舎町の広場。野外 
             昼(イスラエルかヨルダン)


見よ、ここに──ヨハネの齣についで鮮やかな齣移動──眼を凝らすキリスト、その全身撮影。彼のまわりにはいつもよりも人が少ない。そして群衆はおのれの日々の生業に忙しい。キリストは眼を凝らす……
広場の全景撮影。またも一大《リアリスティックなシーン》。 市でごった返す時刻を外れた埃っぽい広場…… 乾燥しきった大気の中に貧しい木立…… 襤褸と豪奢…… 牝山羊、駱駝たち…… 崩れかけた昔の城壁の下で一群の幼い少年たちが悪ふざけして遊んでいる。即席の楽器を奏でる者もいれば、お道化た仕草で踊る者もいる。
そんな広場を横切って、ヨハネのふたりの弟子がキリストとその弟子たちのほうへやって来る。彼らはキリストの前で立ち止まる。

ヨハネの弟子 ヨハネがぼくらを遣わしてきみに尋ねるのだが、来たるべき者はきみだろうか、それともぼくらはほかの者を待たねばならないのだろうか?

 キリスト きみらが見聞きしたことを、行ってヨハネに告げよ、盲は見、跛は歩き、癩病人は清められ、聾は聞き、死人は甦り、貧しい者には福音が説かれた、ぼくに躓かぬ者は幸いなるかな、と。

空ににわかに鳩が飛ぶ。そしてその飛行に視線が運ばれたかのように、見よ、再び城門外の広場の全景撮影
陽射しに麻痺した活発な群衆、あちらで幼い少年たちがお道化て歌ったり踊ったりしている。
ヨハネのふたりの弟子がその真ん中を通り抜けて、彼らの師のもとへ帰ってゆく。
さっと真っ白にする、翼の羽ばたき。眼を眩ませる空に鳩たちの有頂天の飛翔。そしてヨハネの思い出とその俤にわれを忘れて想いに耽るキリスト、そのクロースアップ

キリスト(愛の認知に溢れて燃えるように)  きみらは何を眺めようとして荒れ野に出たのか?
 風にそよぐ葦をか? ならば、何を見ようとして出たのか? 柔らかな衣を纏った男をか? 柔らかな衣を纏った男たちなら、王の宮殿にいる。
 ならば、何のために出たのか? 預言者を見ようとしてか? そうだ、言っておくが、きみらは見たが預言者以上の者は見なかったのだ。彼についてはこう録されている。
 「見よ、わが使いをおまえの前に使わし、おまえのために道を整えさせよう……」 

こうした最後の言葉のバックに非常に微かに、しかもたちまち消え失せるバッハの「プロフェーティカ」の調べ。

誰に話しているのかキリストは? わずかばかりの人だかりに。なのにこの埃っぽい広場でいま彼の話に耳を貸している人たちはうわのそらで、無関心なうえに誰か立ち止まったかと思ううちにまた立ち去ってゆく。

キリスト はっきりと言っておくが、女たちから生れた者の中で洗礼者ヨハネよりも大いなる者は現れなかった。
 それでも天国の中で最も小さい者でも彼よりは大きい。洗礼者ヨハネの日々より今日まで天国は烈しく攻められ、攻める者は嵩にかかって脅かす。
 すべての〈預言者〉と〈律法〉の予言したのは予言者ヨハネの時までのことである。
 きみらに聞く耳があるのならば、彼こそは来るべきエリヤなのだ。耳ある者は聞くがよい。

彼はあたりを見回す、目に入るのは、眠たげでうわのそらのわずかな人だかり…… 陽射しの照りつける大きい広場…… あちらで子供たちが奏でたり歌ったりしている。

キリスト それではぼくはこの世を何に譬えようか? 
 いまの世は、広場にいるあの子らが仲間に呼びかけて、
 「横笛を吹いたのに、きみらは踊らなかった。歎きの声をぼくらが上げたのに、きみらは泣かなかった」
 と言うのに似ている。
 ヨハネが来て飲み食いしないと
 「悪鬼に取り憑かれている」
 と言い、人の〈子〉が来て飲み食いすると
 「見よ、大食いの大酒のみ、取税人や罪人の輩だ」
 と口々に言う。
 しかし〈叡智〉はまさにその成した業によって正しいと認められるのだ。

人だかりの大半は散ってゆく、みなおのおのの暮らしの日常のつましい必要亊にかまけて、あるいは疲れかそれとも陽射しの荒んだ烈しさに拉がれて。
ぱっと立ちあがり、気高く抑えた怒りに震えるキリスト、そのキリストを相変わらずクロースアップ、ついでパン撮影

キリスト 禍なるかな、おまえたち、町という町よ、おまえたちの中でわが奇蹟を起したのに、おまえたちは悔い改めなかった! 
 おまえたちの町中で起した奇蹟の数々がティルスやシドンで成されていたなら、これらの町はとうの昔に粗布を纏い、灰を被って悔い改めていたに違いない。
 それゆえ言っておくが〈裁き〉の日にはティルスやシドンのほうがおまえたちよりはまだ軽い罰で済むことだろう。
 そしておまえ、カファルナウムよ、おまえは天にまで挙げられるとでも思っているのか? 地獄までおまえは突き落とされることだろう。おまえの街中でなした奇蹟をソドムで成していたなら、あの町は今日もあったことだろう。
 それゆえ言っておくが〈裁き〉の日にはソドムの地のほうがおまえよりまだ軽い罰で済むことだろう。





    60  ガリラヤのある野辺。野外 昼
            (イスラエルかヨルダン)


真昼の太陽の深みに落ちた畑や牧場の光景をゆっくりと移動撮影。深く落ちこむ静けさの中に、小鳥たちの神秘的な震える歌声──そして野辺が太陽の平安の餌食となるこんな時刻に──遙か遠くで呼んでは応えるさらに神秘な声々。
あの畑、あの平安に向けて歩みゆくキリストとわずかな弟子たち、彼らに先行して移動撮影
歩みゆくキリスト、彼は心の底からの神秘な悲しみに浸りきって、われを忘れている、その彼のクロースアップ、それに先行して移動撮影
しかしやがて歩きながら眼を上げて立ち止まる。
眼には喜びと優しさの俄の光を宿して、深く波うつ麦の穂を背に道の縁に立つ貧しい人びとの一団を見守っている。
野良仕事を終えた家族全員なのかもしれない。老いた祖父…… 小柄な老婆…… 赤ん坊を片腕に抱えた若い女…… 農具を誇らしげに担いでいる十五歳くらいの少年…… その傍らのずっと小さな弟…… そして少し離れて、男の無愛想な寡黙さの中に閉じ籠もった父親……
けれどもキリストのあの喜びに満ちた眼差しに照らされると、あの無辜の人びとのどの眸も感染して圧倒されて、慎ましく喜びに満たされる。
キリストのクロースアップ

キリスト 〈父〉よ、ぼくはあなたを讃える、天と地の〈主〉よ、あなたはこれらのことを学者や賢者らからは隠して、純真な人たちに顕わされた。
 しかり〈父〉よ、かくあるこそ、御心に適う。
 何事もわが〈父〉よりぼくに与えられ、〈子〉を知る者は〈父〉のほかになく、〈子〉と〈子〉が明かしたく思う者たちのほかに〈父〉を知る者はない。

彼は天を見あげて、楽しげに語った。けれどいまはまた目を落として、あの農民一家を眺める、彼らはなおも心を奪われたまま無邪気に彼を見つめ返している。彼が一家に近寄る。

キリスト 疲れた者、虐げられた者、きみたちみなぼくのもとにおいで。休ませてあげよう。
 ぼくは心穏やかで慎ましいのだから、ぼくの軛をきみらが負い、ぼくから学べ。
 そうすればきみらの魂に安らぎが得られるだろう……

全身撮影の中、彼は数歩あるいて若い母親の両手の中から赤ん坊をそっと取りあげて、優しく毬みたいに揺すりながら、幼児と戯れては人みなするように、高々と天に差しあげる。

キリスト ……ぼくの軛は心地よく、ぼくの荷は軽いのだから!

彼の弟子たちは見守りながら、彼らも笑っている。やがて誰かが腹を空かせて道沿いの畑に入り込むと、麦の穂を摘んでその粒を食べはじめる。するとほかの弟子たちも腹を空かせて彼に倣う。そして見よ、彼らはあそこで立ったまま、あるいは埃っぽい木のかぼそい木蔭に腰を降ろして、その憐れな食事を摂る。
埃の雲の中を一台の馬車がいまそこにさしかかる。何頭もの馬に曵かれて下男たちの小行列まで後ろに従えている。不意に停まった馬車の小窓から金持の服を着た二人の「教養ある知的な男」が顔を出してその場の光景を観察する。彼らは腹を空かせて咀嚼する憐れな弟子たちの姿を見、少し離れたところでその慎ましい友らとあるキリストを見る。

ファリサイ派 見よ、おまえの弟子たちは安息の土曜日にすまじきことをしている。

キリスト ダヴィデがその伴う人びとと飢えたとき、なしたことをきみらは読まなかったのか? 〈神〉の家に入りこみ〈供え〉のパンを食べたではないか、祭司のほかは、彼もその伴う人びとも食べてはならなかったのに。
 また、土曜日に〈神殿〉の祭司たちは境内で安息日を侵しても罪にはならない、と〈律法〉にあるのをきみらは読まなかったのか?
 いまはっきりと言っておくが〈神殿〉よりも大いなる者がここにいる。「われは憐れみを欲し、生贄を欲さず」とはどういう意味かを、もしもきみらが分っていたなら、きみらは無辜の者たちを罪に貶めはしなかったことだろう。
 まことに人の〈子〉は安息日の主であるのだから。





       61  会堂。屋内 昼(イスラエル)


中風病みの硬直した片手のディテール撮影。一群のファリサイ派に囲まれて狼えている中風病みを映し出すまで後退しながら移動撮影
彼らの前に立つキリスト、そのクロースアップ。

 ファリサイ派 安息日に人を癒すは合法か?

キリスト きみらの内にたった一匹の羊を持つ者がいるとして、もし安息日にその羊が穴に落ちたら、これを引っ張りだして助けないだろうか? 人は羊よりもはるかに大切だ。それゆえ安息の土曜日に良いことをするは正しい。

黙って、切に眼を凝らす中風病み、そのクロースアップ。

 キリスト きみの手を伸ばせ。

開いて、動く、片手のディテール撮影。 なおもおのれの幸せを理解できずにいる、癒された中風病みの全身撮影
幸せに満ちた眸のディテール撮影
ゆっくりと、パン撮影に追われて、会堂を出てゆくファリサイ派の人びと、その全身撮影
ファリサイ派がおし黙って遠ざかってゆく一方で、キリストは親しげな軽い笑みを浮かべて中風病みに向き直る。

キリスト 誰にもきみが治ったことを知らせてはいけない。預言者イザヤによって録されたことが成就するように……

バッハの楽曲「プロフェーティカ」が爆発する。

 キリスト 見よ、わが選びたるわが僕、わが心の悦ぶ、わが〈愛しいひと〉…… 

 キリストの声に追われて遠ざかってゆくファリサイ派の人びとの後ろ姿、その全身撮影

キリストの声 われわが〈霊〉を彼の上に置く、そして彼は諸国の民に正義を告げ示すであろう。

そして見よ、再びキリストの光り溢れる顔。

キリスト 彼は争わず、叫ばず、その声を広場で聞く者はいないであろう。

早や門扉に着いたファリサイ人の後ろ姿、前記のように、その全身撮影

キリストの声 彼は罅割れた葦を折らず、けぶる灯心を消さないであろう。

恍惚としたキリスト、そのクロースアップ

キリスト 正義が勝利を占めるその日までは。そして彼の名に、諸国の民はその望みを託すことであろう。 





     62  会堂前の広場。野外
              昼


会堂前の広場は無人で、太陽に食い尽くされている。
退出してくるファリサイ派の人びと、一方、バッハの「プロフェーティカ」の調べは消えてゆく。そこでいまは静けさが極まる。
ただたまに烏が啼く。間が抜けて鋭い啼き声があちらこちらに真昼の炎熱の中、埃の上に谺する。
ファリサイ人が輪になって集まって、黙り込んでいる。 敗北に強張る彼らの顔という顔、そのパン撮影、その敗北から無慈悲な考えが大きく根を張ってゆく(〈信仰〉に対して宗教の既成制度を守り抜こうとする盲た獰猛さが)。

ファリサイ派 彼を死なせる手立てを見つけねばならない。  





     63  ガリラヤのとある町の街中。野外 
          昼(イスラエルまたはヨルダン)


 喚き、呻き、身を捩る気狂いの顔、そのクロースアップ
後退しながら移動撮影して全身撮影で気狂いと、彼のまわりに犇めく憐れな群衆を映し出すまで。

 気狂いの喚き声と呻き声。

憐れみをこめて気狂いを見つめるキリスト、そのクロースアップ
少しずつ鎮まる気狂い、そのクロースアップ
感謝の笑みがこぼれる、癒された気狂いの眸、そのディテール撮影
全景撮影。貧しい人びとの汚れて埃だらけの見すぼらしい街中の向う、あちらの奥に、洗練された庭の木蔭に何人かのファリサイ人が召使や犬たちを従えて腰を降ろしている。
彼らに向けて移動撮影してゆくと、十五世紀もしくは十七世紀の画家たちがそのリアリスティックな空想力をもって思い描くような彼らの「パーティー」が映し出される……
ひとりの若者が主人たちに給仕しながら、あの下のほうの人だかりと、キリストと、奇蹟を眺める。

召使(おのれに言う) あの人は〈ダヴィデの子〉だろうか?

 ファリサイ人(召使に向かって、激怒して)  あやつは悪鬼の頭ベルゼブルの力によらなくては悪鬼を追い出すことはない! 

 全景撮影。群衆を割って、土埃の上、牝山羊や牝牛の糞の上、塵の上を歩いて庭の涼しくて爽かなその一隅へと歩みくるキリスト。彼が金持たちの前に立ち止まる。

キリスト どんな国でも内で別れて争えば滅び、どんな町や家でも内で別れて争えば立ち行かない。
 そしてもしサタンがサタンを追い出せば、それは内で別れて争うことだ。
 ならば、どうしてサタンの国は立ち行こうか? 
 それにもしぼくがベルゼブルの力によって悪鬼を追い出すのなら、きみらの子は何の力で追い出すのか? 
 それゆえ彼らがきみらを裁く者となろう。
 しかしもしぼくが〈神〉の霊の力で悪鬼を追い出しているのであれば、きみらのところまで〈神〉の国はやって来ているのだ。
 また、まず強い者を縛らないで、どうしてその家に押し入って家財道具を奪うことが出来ようか? 強い者をまず縛ってこそ、その家を奪えるのだ。

 ファリサイ人は曖昧に関心を紛らせつつ、彼の話に耳を傾ける。

キリスト ぼくとともにある者のほかはぼくに背き、ぼくとともに集めない者は散らしている。

全身撮影のキリストのまわりにはその弟子たちもやって来て、奇蹟に立ち会った群衆もこれに加わる。
いまはキリストは全身撮影で話し、そしてそれは裁き、罰するキリストだ。彼の優しさ、彼の小声、彼の疲れを知らぬ教えさとす力はいまは影をひそめて震えを帯びた烈しさを内に籠めた声となる。

キリスト それゆえきみらに断っておくが、どんな罪、どんな罵りも人には許されるが、〈霊〉に対する罵りは許されない。
 そして人の〈子〉に逆らって言う者は許されるが〈聖霊〉に逆らって言う者はこの世でも後の世でも許されない。
 あるいはきみらは木を善しとするならその実も善しとし、木を悪しとするならその実も悪しとせよ。
 木の善し悪しはじつにその実から知れる。

召使たちは控えめに、肝を潰して、魅せられつつ彼を見つめる。しかしファリサイ人はそうはいかない、教養人としての彼らの意識の不信の中に閉じ籠もる。

キリスト 蝮の裔よ、どうして善いことを言えようか、おまえたちが悪しき者ならば? 口はまさしく心から溢れ出ることを語る。
 善い人は善い蔵から善い物を取りだし、悪しき人は悪しき蔵から悪しき物を取りだす。
 言っておくが、人の語るどんな無為の言葉も〈裁き〉の日には糺されることだろう。

きわめて長い沈黙。召使の顔という顔…… ひとりの下女が乳飲み子を胸に抱き締めている…… ファリサイ人が食卓の上の一本の花を指の間で圧し潰す……

 ……まことにおまえたちはおのれの言葉によって義とされ、おのれの言葉によって罪せられる。

またもきわめて長い沈黙が群衆の上に、金持の一団の上に訪れる。

ファリサイ人 師よ、われらはあなたの徴を見たいのだが……

 キリスト 邪な不義の世の者どもよ! 徴が欲しいとか、だがいかなる徴も与えられはしない、〈預言者ヨナ〉の徴のほかには。 ヨナが三日三晩、鯨の腹の中にいたように、人の〈子〉も三日三晩、地の懐に留まることだろう……

 こう彼が話す間に遠くから叫びや驚きや呼ぶ声が聞えてくる。何か思いがけないことに、気もそぞろとなった群衆のざわめきだ。二、三人少年が走ってくる、そしてずっと後ろの遠くから、新たな人びとの群れが歩みくる。 
撮影レンズがこうしたこと一切を映し出している、そのうちにもキリストは泰然として語り続ける。

画面外のキリストの声 ニネヴェの人びとは〈裁き〉のとき再び立ちあがり、いまの世の人びとに対してその罪を定めるだろう。
 なぜなら彼らはヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。
 見よ、ヨナよりも勝る者がここにいる。
 南の女王は〈裁き〉のときに立ちあがり、いまの世の人びとに対してその罪を定めるだろう。
 なぜなら彼女はソロモンの智慧を聴こうとして地の果てから来たからである。
 見よ、ソロモンよりも勝る者がここにいる。

少年たちはいまはキリストの間近に来た。彼らの眸は悦びに輝いている、ニュースを、善いニュースを持ってきたからだ…… 彼らのひとりがキリストの衣裳の裾襞を引く。

少年 あんたの母さんとあんたの兄弟たちがあっちの外にきて、あんたと話したがっているよ……

けれどもキリストは中断せずに、ファリサイ人に向かって頑として語り続ける。

キリスト 汚れた霊が人から出たときには、水なき処を彷徨い歩いて休もうとする……

 見よ、ロングショットで、列をなして道を開ける群衆の間をキリストの親類たちが歩みくる。マリアはとても慎み深く気後れして度を失ったかのようにあたりを見回している。あそこまでマリアを連れてきたのは親類連中だった。これほど度外れたあの彼らの従兄弟に敵対的で疑い深い親類連中だ。

画面外のキリストの声 ……が、見つからない。すると言う、「出てきたおのれの家に帰ろう」 と、そして帰ってみればその家は空いていて、掃き清められ、飾りたてられている。そこで往って、おのれより悪しきほかの七つの霊を連れてきて…… 

 マリアの上にバッハの「死のモチーフ」が気高く、深い悲しみを誘って爆発する。

 マリアのまわりにはキリストのほかの親類たち、若い「弟や妹」たちがいたが、彼らも怖じ気づき、いくらか恐がっている……

画面外のキリストの声(続き) ……一緒に入って、そこに棲みつく。だからその人の後の様は前よりも悪しくなる。邪ないまの世のおまえたちもまたこのようになることだろう。

ファリサイ人に向いたまま、キリストが語りおえたそのときに、やや気落ちした少年はあんなにも悦びに溢れていた眸にいまは悲しみのヴェールを被せて、再びキリストの袖を引く。

少年 あんたの母さんがいるし……あんたの弟たちもいる……

 そのとき、キリストは振り向く。そして見つめる…… するとそこ、彼の目の前に、慎ましく聖なるマリアが彼女も彼を見つめ返している、このうえなく優しいその眸のほかではあえて話しかけようともせずに。
キリストのクロースアップ。彼の眸もまた底知れぬ悲劇的なやさしさに溢れている。

キリスト ぼくの母親とは誰か、またぼくの兄弟たちとは誰か?

それから彼はその弟子たちのほうを振り向く。ゆっくりとパン撮影、彼らを──そしてマリアをも。

キリスト 見よ、ここにぼくの母親とぼくの兄弟たちがいる。誰であれ、天にいますわが〈父〉の意志を行う者はすなわちわが兄弟、わが姉妹、わが母親である。

バッハの「死のモチーフ」がこのうえなく高らかに鳴り渡り、消えてゆく。

 溶暗。




   64  ガリラヤの野辺。野外 昼
        (イスラエルまたはヨルダン)


畑の広がりをゆっくりとパン撮影、黄金色の麦畑がそよぐ風に忘れっぽく音を立てている。そして忘れっぽく、ひとりの農夫が家畜を怒鳴りつけながら働いている。
思いを凝らしてから語りはじめたキリスト、そのクロースアップから、弟子たちと一緒に、湖畔で彼の話を聴きに彼のまわりに出来た小さな人だかりを映し出すまで、移動撮影

キリスト さて、種を蒔く人が種を蒔こうと出かけた。
 そして蒔くとき種の一部は道端に落ちた。鳥たちが来てその種を啄んだ。
 ほかの一部は土の薄い石地に落ちた。土が深くなかったからすぐに萌え出たけれど、太陽が昇ると灼けて、根がないので枯れてしまった。
 ほかの種は茨の間に落ち、茨が育つと塞がれてしまった。
 またほかの種は良い地に落ちて、実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍となった。
 耳ある者は聴くがよい。

ひとりの弟子 なぜ彼らには譬えで話すのか?

キリストは彼を見つめて微笑んだ。それからゆっくりと腰を上げて歩きだし、湖畔を行く。片側は湖、反対側は麦畑の乾いた花咲く畑ばかり。弟子たちと群衆が彼についてゆく。
長い移動撮影が先行して、キリストと群衆が進むにつれて次第に街道と新たな人たち──一般民衆、少年たち、若い女たち──彼らも彼についてゆく、を映し出してゆく。 やがてしばしの間、キリストはほぼ使徒たちだけと歩みゆき、彼らに声を低めて話しかける。

キリスト きみたちには天国の秘密を知ることはゆるされているが、あの人たちにはゆるされなかった。
 実際、持っている人はさらに与えられて有り余るほどになるが、持たない人はその持っているものまで取りあげられてしまう。
 それゆえ彼らには譬えで話すのだ。なぜなら彼らは見ても見ず、聞いても聴かず、また悟らないから。
 こうしてイザヤの預言は彼らの上に成就する。曰く、
 「おまえたちは耳で聞くが悟らず、目で見るが悟らない。なぜならこの民の心は鈍く……」

 バッハの楽曲「プロフェーティカ」が預言の最初の言葉とともに広がりだしていたのだが、いまは一段と力強く鳴り渡る。

少しずつキリストが語るにつれて、新たな登場人物たちが、貧しく無邪気な人たちが後方に映し出されてゆく、歩みくるキリストに先行する移動撮影によって。

キリスト ……耳は聞くに懶く、目は閉じられたからだ。目で見、耳で聴き……

 クロースアップで歩みくるキリストをいまは移動撮影が先導する。

 ……心で悟って、改宗して、ぼくに癒されることがないように。

移動撮影を前にして、クロースアップで、相変わらず歩みきながらキリストはしばしの間おし黙り、目を閉じて思いを凝らしていたが、やがてまた目を上げる。その眸は甘く愛しい陽気さに溢れている。

キリスト しかし幸いなるかな、きみたちの目よ、見るゆえに……

 いまは再び全身撮影で、相変わらず歩みきながら──相変わらず移動撮影に先導されながら──語りかけながら、頭を撫でるかと思えば、腕を締めつけたり、手に取ったりする、いまは少しずつ彼と肩を並べてきた無知な人たち、信仰篤い人たち、賤民たちの頭や腕や手を。

 ……きみたちの耳よ、聞くゆえに。まことに断っておくが、多くの預言者と正しき人たちは、きみらの見るものを見たいと切に願ったが見ず、きみらの聞くものを聴きたいと切に願ったが聞かなかった。

 人影のない畑、鳥たちの囀りの下で、眠たそうな微かな葉擦れの音を立てている麦畑の上をゆっくりとパン撮影。 真昼の底知れない平安の中を、全身撮影で 歩みくるキリストと、その話し聞かせる群衆、彼らに先行して果てしない移動撮影をまた再開する。

キリスト 天国は良き種を畑に蒔いた人に似る。みなが眠っている間に敵が来て、麦畑の中に毒麦を蒔いて立ち去った。そして小麦が萌え出て穂を立てたそのとき、毒麦も現れた。作男たちが家の主人の許に行って尋ねた。
 「主よ、あなたの畑に蒔いたのは良い種ではなかったのか? どうして毒麦が生えているのか?」
 すると主人が彼らに応えた。
 「敵の仕業だ」
 そこで作男たちが訊いた。
 「それではおれらが行って毒麦を引っこ抜けばいいのか?」
 すると主人。
 「いやだめだ、毒麦を抜きながら、おまえたちは小麦も抜いてしまうことだろう……

いまはキリストのクロースアップから後退しながら移動撮影

……ふたつながら刈り入れのときまで育つにまかせよ。そして刈り入れのときに刈り入れ人に言うことにしよう、
 「まず毒麦を集めて束に束ねてこれを焼き、麦のほうはわが蔵におさめよ」
  、と。

昔ながらの優しい夏の風に揺さぶられる乾いた芒をかすめながら、麦畑をゆっくりとパン撮影
後に従う群衆に説いて聞かせながら全身撮影で歩みくるキリスト、彼らに先行して移動撮影をまた再開する。

キリスト 天国はひと粒の芥子種に似る、人これを取ってその畑に蒔く。芥子の種はどんな種よりも小さい。だが育つとどんな野菜よりも大きくなって、樹となって、空の鳥たちが来てその枝の上で休むほどだ。
 天国はパン種に似る、女これを取って三桝の小麦粉の中に隠す、するとやがてひと塊になって醗酵した。

穏やかな厳かな光の中、麦畑の上をもう一度パン撮影
そして前記のように、説いて聞かせながら歩みくるキリストに先行してもう一度移動撮影

キリスト 天国は畑に隠された宝に似る。人、それを見つけ、また隠しおき、すっかり喜んで往って、持てるものを売り払い、その畑を買う。

いまはパン撮影が湖を映し出す、その波に洗われる浅瀬、その瞬く煌めき、遠くの漁師たち、小舟……

前記のように、キリストを移動撮影

キリスト また、天国は美しい真珠を探す商人に似る。そして高価な真珠ひとつが見つかれば、往って持てるものを悉く売り、彼はその真珠を買う。

湖と、浜辺を新たにパン撮影
そして前記のようにキリストを最後の移動撮影

キリスト 天国は湖面に投げ入れられた網にも似る。網はどんな類の魚でも集め入れる。網が一杯になると、漁師たちは網を岸に引き寄せて、腰を降ろして、良い魚は籠に入れ、悪い魚は捨てる。このように世の終りもなるであろう。天使たちが来て、正しい人から悪しき者を分ち、彼らを燃え盛る窯に投げ入れ、窯は歎きと歯軋りに満ちることであろう。きみらはこれらのことがみな分ったか?

弟子たち はい。

いまは移動撮影が先行してクロースアップで歩みくるキリストは疲れを知らぬ声でほとんど一息に説き聞かせるのを終える。

キリスト それゆえに天国の弟子となったどんな学者も、新しい物と古い物をその蔵から出す家の主人に似る。

溶暗。





   65  ナザレの家とナザレ。野外 
         昼(イスラエル)


 全シーンをとおしてバッハの「死のモチーフ」が甘く、底知れずに深く鳴り渡ることになる。

キリストが暮らしたナザレの家の全景撮影。家のまわりには(そしてあの下のほうの埃に埋もれた村の白茶けた最後の家並みのあたりには)太陽しかない午後の時分だ。(ここでは女たちはその最もひっそりとした家事にかまけていて、男たちは野良に出て働いている)太陽。そして光の乾いた烈しさの中に、たまに烏が不安をそそるように啼く。
わずかな弟子たちの間で、感動して家を眺めるキリスト、その全身撮影。それから短い沈黙ののち、家のほうに歩みだす。
人けがなく、よそよそしくその平安のうちに閉じている家に向けて、ゆっくりと移動撮影
だが見よ、どこかの囲い壁の陰から、あるいは何かの農具の下から幼い子供が現れる。キリストの幼い従兄弟のひとりだ、確かに小犬みたいに小さくて襤褸を纏っている。あのよそ者たちを見かけると、幼子はじっと見つめながら、衣裳の裾をしゃぶっている。
キリストは微笑みながら近寄って抱き寄せようとする。けれども男の子はそんな見知らない男を前に、逃げだして小走りに家に駆けこむ。
寂しそうに彼を見つめるキリスト、そのクロースアップ
するとそこに家から女が──若い母親が──あの子を両腕に抱き締めて出てくる。 そして立ち止まり、遠くから、脅えて敵意をこめてよそ者たちを睨んでいる。そこでキリストは踵を返してまたナザレへと歩きだすが、その家並みが埃の中にすれすれに現われる、太陽に貪り喰われた無花果林とオリーヴ林の裏手に。
だが見よ、いまあの下のほうで、あの同じ戸口からマリアが出てくる。

 いまはバッハの「死のモチーフ」が一段と力強く、胸が張り裂けるように鳴り響く。

キリストは目に愛しさの翳を滲ませて彼女を見やり、立ち去る。
後ろ向きに移動撮影、まずあの下のほうで、戸口に立つマリアの全身撮影に被せて、ついで家の全景撮影に被せて、家は遠く後方に残されて、暇乞いを告げているかのようだ。
そしていまは前向きに移動撮影、ナザレの貧しい家並みの最初のひと塊、その〈城門〉近くにはすでに人びとが屯している、きっと一行の来ることを知らされたのだ。
人数はわずかなものだ。炎暑の中、石灰を撒いたような白い光の中で、暗く集まっている。キリストはそうした人たちに向けて歩みゆく。彼らは好意も敵意もなしに彼を眺めるが、その陰気な日々の無関心の中に失われている。

ナザレの人びと いったいどこで彼はそんな知恵や奇蹟の力を授かったのか?
 ──大工の息子というのは彼のことではないかしら?
 ──彼の母親の名はマリアで、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか? 彼の姉妹たちはみなわたしらのとこにいるではないか?
 ──いったいどこから彼はこれらすべてのことを授かったのか?

故郷の村がおのれを迎えるこの無関心の壁を前にして、キリストは立ち止まり、やがて小声で内心の溜め息のように、

キリスト 預言者はおのが郷、おのが家のほかでは侮られることはない。

憂いを深めた彼の顔の上に…… 

……その上にバッハの「死のモチーフ」が消えてゆく……

ゆっくりと溶暗。